……風が凪いでいた。春なのに、こんなに静かな夜。
マンションの駐車場には、私たちふたりだけしかいない。
【小鳥遊】「芸が細かいね。見送りなんて」
【八重】「……からかわないで下さい。……芸なんかじゃないです」
【小鳥遊】「そう。だとしたらありがとう」
持ってきた救急箱を持って、小鳥遊の車に乗り込む。
別にこれからドライブへ行くわけじゃない。
さっきの騒ぎで口を小鳥遊は切ったはずだ。
その治療のために、私は小鳥遊を追いかけた。
……お兄ちゃんをおいて。
【八重】「……小鳥遊さん、最初から気づいてたんだ。お兄ちゃんが、私を妹として見てないってこと」
【小鳥遊】「そりゃ、好きだから気づくよ。……これでも恋愛経験は豊富な方なんだ。女の子相手のみだけどね……いてて」
消毒液がしみたのか、小鳥遊は顔をしかめた。
あちこちについた小さな痣も、小鳥遊みたいな風貌だと格好良く見える。
【八重】「……なんて電話したの?」
【小鳥遊】「ん? これから八重ちゃんとえっちするかもよ、って」
【八重】「直球だね」
【小鳥遊】「冗談に取ってくれなかったってことは、僕は信用されてないってことだよねえ」
たはは、と小鳥遊は笑う。けれど、私は笑えなかった。
その冗談の一言で、お兄ちゃんは小鳥遊を殺そうとしたのだ。
……それを歪んでいると言わずに、何を歪んでいると言うのだろう。
そして私は……それを見て喜んだ。
【八重】「……小鳥遊さん、失恋しちゃったね」
【小鳥遊】「そうだね。……ま、しょうがないよ。気持ちが悪いって言われなかっただけマシだ」
【八重】「……ごめんなさい」
【小鳥遊】「なに、八重ちゃんは悪くない。悪いのはいつだって、それにつけこむ男だよ」
今ならわかる。小鳥遊がどうしてお兄ちゃんを遠ざけようとしたか。
ふたりで話そうと言ったのか。抱きしめてくれたのか。
私の頼みを聞いてくれなかったのか。
黙って殴られてくれたのか。
……なぜ今、優しく私のことを受け入れてくれるのか。
それはすべて一言。
一言で言える、そのために、この人は。
【八重】「……お兄ちゃんのこと、大好きなんだね。……小鳥遊さん」
【小鳥遊】「……そうだよ。信じてなかった?」
それはすべて、恋のため。私たちは知っている。同じ存在だからわかるのだ。
お兄ちゃんと私は、このまま進めば海に沈むしかない。
たとえば小鳥遊とお兄ちゃんがそうなっても、向かう先は一緒だろう。
どうしようもない、行き場のない恋。
今だけの快楽を抱き、明日も見えない未来に向かって、落下していくだけの恋。
そのブレーキを踏めるのは、車に乗ったふたりだけ。
ふたりのどちらかが、ブレーキを踏まなくちゃいけなかった。
そう、それは。
……偽りに体を重ねるより、ずっとずっと辛くて痛くて、悲しいこと。
お兄ちゃんはあの一言をどう思ったんだろう。
ちゃんと聞こえていただろうか。
小鳥遊がどんな思いを込めてあの一言を呟いたか。
……少しでもわかってくれたならいいと思う。
【小鳥遊】「……小鳥遊さん」
【小鳥遊】「ん?」
【八重】「アルバイトのことなんですけど、よろしくお願いします」
【小鳥遊】「……おっけー。七緒は反対するだろうけどね」
【八重】「大丈夫です。私が説得するから」
お兄ちゃんは私の言うことはなんだって聞いてくれるから。
……その事実は、今の私には鈍い痛み。
ちくりと私の胸を刺していく。
【小鳥遊】「……救急箱、ありがとう。助かった」
【八重】「いいえ。これくらい当然です」
【小鳥遊】「七緒によろしく」
【八重】「はい」
そして、凪いだ世界に風を巻き起こして、小鳥遊は消えた。
……遠い、遠い、あの空の向こうへ。