「悪役令嬢と極道P」新連載のお知らせBlog

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風景が急速に流れていく。
緑、赤、黄色、オレンジ、ピンク。
色とりどりだった渋谷の街は、一歩抜けるととたんにその色を無彩色に変えてしまう。
小鳥遊の操るかっこつけの車は、私にとって、牢獄と化した。
私はただ、サイドシートに小さく丸まりながら座っているしかない。

私は小鳥遊の車に乗っている。……というか、乗せられた。
抱き上げられて、口を押さえられて、足をばたばたさせたけど、だめだった。
渋谷の街は無関心が信条。
そんなのわかってたけど、本当にこいつが変質者だったら、あの時周りにいたやつらはどうするつもりなんだろう。
こんな狭い箱に押し込められて、しかも動いたらもう逃げられないに決まってる。
拉致監禁とか、連れ去りとかって、たぶんやろうと思ったら本当に簡単なんだ。
大人の男にとっては。
……こういうとき、自分は子どもで、女で、力がないって思い知る。
勝てない。
だから今は、こんな抵抗しか出来ない。

【八重】「……下ろして、変態」
【小鳥遊】「八重ちゃんが僕のことを変態って呼ばなくなったらね」
【八重】「変態は変態じゃない。信じられない、ホモなんて。お兄ちゃんに言いつけてやる」
【小鳥遊】「それは困る。まだ告白もしてないのに」

右に視線を向けると、小鳥遊と目があった。
長い睫。それが小鳥遊のくゆらせるタバコの煙で揺れた。
それがいかにも困った風なので、思わず聞いた。

【八重】「なんでお兄ちゃんが好きなの」
【小鳥遊】「なんでって言われてもね。好きなんだからしょうがない」

小鳥遊は前を見ながら首をかしげた。
ガラスの先には広く、果てなく続く道。
私たちは金属の箱の中でふたりきり、お兄ちゃんを思い出した。

【小鳥遊】「八重ちゃんならわかってくれると思ったんだけど。七緒のどこが好きかなんて」
【八重】「だって、お兄ちゃんって真面目過ぎるし、無趣味で遊んでも面白くないし、顔はそれなりだけど、中身はドジ男じゃない」
【小鳥遊】「うーん……さすが唯一の身内だけあって、反論しようもなく真実だなあ」

薄い唇からタバコが離れた。
灰皿はあんまり灰が入ってなかった。
実はあんまり、吸わないのかもしれない。
車内は綺麗に整えられていて、小鳥遊のオーデコロンの匂いだけが微かにする。

【小鳥遊】「だけど、そういうところが好きなんだから、しょうがないよねえ」
【八重】「……う……」

二度言った。一度目は友達のニュアンス。だけど二番目は違った。
そこには微かな真剣さ。
そう、小鳥遊は困ってる。
……どうしようかなあ、と思ってる。
恋に、戸惑ってる。

【八重】「小鳥遊さんってずっとホモなの」
【小鳥遊】「いや、遊び以外はしたことないんだ。七緒のことだって、意識したのは最近だよ」
【八重】「……最近?」
【小鳥遊】「君が来てから、定時に上がるようになったでしょう。それからかな」
【八重】「……」

カチリ、と高そうなライターで二本目に口をつけた。
車はすでに渋谷から遠く離れ、私の住んでいるマンションも見えない。
道は土曜なのにあまり混んでいなくて、大きな道の真ん中を小鳥遊の車は悠々と滑り抜けていく。

【小鳥遊】「……白状するよ。七緒はわざと追い出したんだ。君と話してみたかったから」

やっぱり、罠だったのか。
お兄ちゃんはあまりにも頑なに私のことを拒んだ。
それはよっぽどのことを小鳥遊に言われたからに違いない。
たとえば、言うことを聞かないとクビにする、とか。

【八重】「卑怯だわ。あんたがお兄ちゃんといられないからって、嫌がらせするなんて」
【小鳥遊】「嫌がらせの気は毛頭ないんだけどね。さっきも言っただろう? 君に認めてもらえたらいいなって、本心なんだけど」
【八重】「認めるわけないじゃない!」
【小鳥遊】「それは僕が男だから?」
【八重】「当たり前のこと、聞かないでよ!」
【小鳥遊】「……うーん……それはそうだよね、うん。同感」

からかってるのかこいつは。

【小鳥遊】「僕もキモいなって思うし。うん、君の言うことは正しい」
【八重】「だったらやめてよ。もう二度とお兄ちゃんに近づかないで。私たちの家にも来ないで」
【小鳥遊】「ねえ八重ちゃん。僕がなんでこんなことしたか、考えてくれないかな」
【小鳥遊】「僕は確かに気持ち悪い。自分でもこんなはずじゃなかったって思ってるよ。だからこそ、君と話してみたかったんだ」
【八重】「……どういう意味よ」
【小鳥遊】「君は好きじゃないの。七緒のこと」
【八重】「……」

頭が、また。
……思考を止めた。
……好きじゃないの。……ななおのこと。

【八重】「な」
【小鳥遊】「家に遊びに行ったとき、思ったんだ。君の独占欲はちょっと異常だ。……僕は仕事柄知り合いが多くてね」
【小鳥遊】「色々な家族の形を見てきたけれど、君と七緒ほど、お互いが強くつながっている兄妹は見たことがない」
【八重】「……仲が良いのよ。うらやましい?」
【小鳥遊】「そうだね。七緒は理想のお兄ちゃんだろう。そう言われる?」
【八重】「……言われるわ」

大家さんや、近所の大人。買い物先の店員。散歩中の犬と飼い主。

『仲の良いご兄妹ね。うらやましいわ』

……それは嬉しい言葉。……私たちにとっては最高の褒め言葉。
だから私はその人たちに向かってにっこりと、極上の笑顔で微笑む。

『はい、そうなんです。私、お兄ちゃんのこと、大好きなんです』

……だけど。
……だけど。
……だけど、どこかで。
……違うって思ってた。
……ちがうの、私はもっと別の。

【八重】「やめて!」
【小鳥遊】「……八重ちゃん」
【八重】「……あんたと一緒にしないで。私とお兄ちゃんは家族なんだから。あんたみたいないやらしいやつとは違うんだから!」
【小鳥遊】「……」

長い睫がまた揺れた。私に触れようとしたその手にはタバコはない。
ちりちりと高そうなコートに灰がからまって私の鼻をついた。
車もいつの間にか止まり、窓からの風景はすでに無彩色のビルを抜けて、抜けるような空が広がる河原にたどり着いていた。

【小鳥遊】「八重ちゃん、君はやっぱり、七緒のこと」
【八重】「やめて、お兄ちゃんを名前でなんて呼ばないで! あんたなんかに資格なんてないんだから! 変態のくせに!」

その言葉を言って、思わず口を押さえた。

【小鳥遊】「……好きなんだね。やっぱり」
【八重】「……」
【小鳥遊】「妹としてじゃなくて」
【八重】「……ちがう」
【小鳥遊】「……八重ちゃん」
【八重】「ちがうちがう。……ちがうもん。……違うんだったら……!」

名前でなんて、私は呼べない。
だって私は、妹で、家族で、特別だから。
……それだけで満足だし、それ以上望むものなんてない。
だってお兄ちゃんは私のために一杯もう、いろんなものを失った。
お兄ちゃんは働かなくちゃいけない。
だってマンションのローンだってあるし、お金のかかる食い扶持は増えたし、毎日を生きるのにもお金はかかるし。
まだ二十歳そこそこのお兄ちゃんに、それはすごく負担なんだろうと思う。
さっき眺めていた人波の中に、お兄ちゃんと同じくらいの年の人たちはたくさんいた。
そいつらはただ、ちゃらちゃらと笑って、男や女を引き連れて、無駄な時間を過ごすために街の中へ消えていく。
……それを私は血になぞらえた。
だって、生きて動いているだけだから。
いなくちゃ困るけど、替えがきく存在。
緑のバイパスがつながっているかぎり、渋谷という街には新しい血が流れ込んでくるだろう。
その中身が何であっても、渋谷にとってはどうでもいい。
だけど、お兄ちゃんは違う。
……あんなやつらとは全然違う。
とてもむかついた。どうして、どうしてこんな毎日がお兄ちゃんにはないんだろう。
その答えはわかってる。

私がいるから。

私がいるから、お兄ちゃんは普通になれない。
……だけど、私は……お兄ちゃんがいないと生きていけない。
だから、私は妹でいなくちゃいけない。
……どこまでも続く循環。それは血液の流れのよう。
どくどくと音を立てる、生きるための回路。
私はお兄ちゃんから吸い上げる。時間、お金、感情、チャンス。
だけど、それは限りあるもの。だってお兄ちゃんは唯一の物。
替えのきくものじゃない。だから、お兄ちゃんがいなくなったとき、私も倒れる。
それは確かに、歪んでいると思う。
だけど、替えのきく何かで生きていくなんて、私はもう出来ない。
だって味を知ってしまっている。
あの血の味……お兄ちゃんの味。

『理想的なご兄妹ね』

『ありがとう』

そう受け答えするときの、お兄ちゃんの顔が私は見られない。
お兄ちゃんは信じてる。
なのにどうして私は信じられないんだろう。
お兄ちゃんが私との賭けに勝ってくれたときは、あんなに安心できたのに。
……あの時の幸せがずっと信じられると思ったのに。
どうして私は、だめなんだろう。
……どうしてお兄ちゃんの信じるものを、何の疑問もなしで受け入れられないんだろう。

【小鳥遊】「……ごめん、泣かせるつもりはなかったんだ」
【八重】「泣いてなんかいません」

目の前が白く歪む。
そのもやの正体が涙だっていうのは、知っている。
だけど、泣いている事実なんて認めたくなかった。
だってそれじゃ、小鳥遊の言ったことは本当だって言ってるようなものだもの。
泣くわけにはいかない。
……そんなの、私が私を許せない。

【小鳥遊】「……帰ろう。このまま車で夜明かしなんて、預かった以上申し訳ない」
【八重】「……」

小鳥遊の車が滑り出す。それはとても優しくて、静かだった。
水面に浮かんだ花が沈まぬように、音を立てず、震わせず。
だけど、その何もないことが。

……私の目から涙を一筋、流れさせた。

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