渋谷駅前はいつも通り、人の波でごった返している。
人の塊が十重二十重に行き交い、いつまでも終わることなく続く。
まるで血液の循環のようだ。駅が心臓で、人が血液。
それはどくどくと波打ち、奇怪な音を立てて私の前を流れていく。
……我ながら、少女らしくない想像だ。
だけど、人しかいないこの街で、一体どんな感情を持てばいいのか。
特にひとりきりで、望まない誰かを待ってるときなんて。
【小鳥遊】「やあ、お待たせ」
【八重】「女の子を待たせるなんて、最低ですよ。小鳥遊さん」
いかにもブランドものです、と主張したスーツを羽織って、その男は私の前に立った。
さっきから私を遠巻きに眺めていた男たちが、揃って落胆したように離れていく。
声をかける度胸もないなら、もっと早くそうすればいいのに。
もっとも、小鳥遊と待ち合わせてなくたって、あんたたちなんかについていかないけど。
【小鳥遊】「いやあ、八重ちゃんが時間を守る子だなんて思ってなかったから」
【八重】「私、約束を破るのは嫌いなんです」
【小鳥遊】「はは、そうだね。これは失敬。いい女はそうでなくちゃ。ごめんね」
【八重】「……」
……最後のごめんね、のイントネーションがむかついた。
……お兄ちゃんの真似なんてしやがって。
どこまでこいつは私の気持ちを逆撫でするのかしら。
【八重】「で、買い出しするって本気なんですか。小鳥遊さん」
【小鳥遊】「本気も本気だよ。数日とはいえ一緒に暮らすんだ、自炊はしないとまずいだろう」
【小鳥遊】「八重ちゃんを預かる以上、外食ばかりもねえ。普通の女ならそうしちゃうんだけど。その方が喜ばれるしね」
そうだろうと思う。こいつが料理をしているところなんて、想像できない。
だって今私がここにいるのだって、スーパーの場所がわからないから、迎えに来てくれって呼び出されたからなのだ。
こいつだって渋谷に住んでいるのにも関わらず。
こんなのに食生活を任せたら、私はきっと三日後に死んでいると思うんだけど。
……お兄ちゃんのバカ。
【八重】「……別に小鳥遊さんがいなくても、自分で作れますけど。料理くらい」
だから最後の抵抗を試みた。そう、これは自己生存のための一手。
お兄ちゃんの言いつけを破ってるわけじゃない。
それに監視役がいなければ、全日カップメンって手もある。
別にそれでだって生きてはいけるんだし。
【小鳥遊】「だめだよ、そんなこと言って僕を追い出そうとしても。八重ちゃんの性格から言って、監視がないとどこまでもズボラになりそうだ」
【八重】「ぐ……」
こいつは心の声が読めるのか。……やっぱり、敵だ。
【小鳥遊】「それと、七緒にも頼まれているしね。八重ちゃん、四月から学校なんだって? 学用品とか買わなくちゃいけないんじゃないの?」
【八重】「……そ、それは……」
そりゃ、必要に決まってる。
新しい制服に似合う革靴が欲しい。
中学校はかっこわるいスニーカーが指定で、革靴なんてとても履かせてもらえなかったから。
せっかく髪型が自由なんだから、綺麗な髪留めも欲しい。
あんまりお兄ちゃんには言えないけど、ブラがきつくなってきたから下着もいくつか買い足したい。
出来れば身体検査でみんなにカワイイって言ってもらえるような、上下がセットの。
……欲しいものなんて一杯ある。
だけど、うちはそう裕福な方じゃないし、この中でひとつでもねだれればいいなって思ってた。
だけど、今日からお兄ちゃんはいない。
【八重】「……ないです、そんなの。……制服があれば学校なんていけるもの」
【小鳥遊】「そんなことはないだろう。靴とか、文房具とか、鞄とか」
【八重】「そんなの、別に小鳥遊さんに心配してもらうことじゃないですから。……じゃ、スーパーこっちですから。行きましょ」
【小鳥遊】「待って、買っていこうよ。スーパーは後でもいいじゃない。ね、行こう」
【八重】「……いいです、本当に」
【小鳥遊】「贈り物がしたいんだ。僕は八重ちゃんともう少し、仲良くなりたいから。いいじゃない、ふたりで並んでお買い物。ね、いいでしょ?」
【八重】「な」
な、の形で口が固まった。
なんだそれは。なんだそれは。私とこいつが、並んでお買い物?
しかも私の学用品を買うために?
ありえない。
【八重】「そんなお金かかること、しないで下さい。……悪いですから」
【小鳥遊】「ああ、お金のことは気にしないでいいから。今日、競馬で勝っちゃったからさあ」
【八重】「お、お仕事じゃなかったんですか?」
【小鳥遊】「ん? お仕事もしたよ。でも、これまたぶっさいくでさあ。気分が滅入ったから、ちょっとやったら万馬券。すごいでしょう」
えへん、とふんぞり返って差し出す茶封筒。
……なんだあの厚みは。百万円は入っている。
【小鳥遊】「だから、ぱーっと使おうと思って」
【八重】「た、小鳥遊さんにそんなことしてもらう謂われはありません!」
そうだ。なんなんだこいつ。
私のことが邪魔なはずなのに、どうしてこんなことするんだろう。
……罠だ。何かの罠に決まってる。
【小鳥遊】「ふむ。警戒してる?」
【八重】「当たり前ですっ。小鳥遊さんはお兄ちゃんの会社の人だけど、それだけでしょ」
【八重】「私とは関係ないし、私のご機嫌を取る必要だってないですから」
【小鳥遊】「なるほど。それはそうだ。はは、八重ちゃんは頭が良い」
小鳥遊はそう言ってまたあのニヤニヤ笑いをした。
……ぶっとばしたい。……今すぐぶっとばしたい。
【小鳥遊】「じゃあ、簡単に言おうか。僕、七緒が好きなんだ」
【八重】「へっ……」
頭を打ち付けられたような衝撃。
……こいつ、今……なんて言った?
好き。
好き。
……好きって。言った?
【小鳥遊】「あはは、驚いてる」
【八重】「……い、今、なんか耳鳴りが。……聞いてない、聞いてないです、うん」
【小鳥遊】「じゃあもう一回。僕は七緒が好きだ。真剣につきあいたい。だから、八重ちゃんにも認めてもらいたいなあって」
……また言った。
……また言ったよ。聞こえたよ。
……好きって。好きって……。
【八重】「な……」
【八重】「きゃーーー、へんた……!」
【小鳥遊】「うわっ!」
周りの人ゴミが一気に私たちを振り返った。
『い』まで叫ぼうとするが、小鳥遊の大きな手が私の口を塞ぐ。
苦しい。
【八重】「もがががっ!」
【小鳥遊】「八重ちゃん……こういう場所でそれは反則。……こっち」
【八重】「もががっ!」
黒い小鳥遊のスーツ。その上質な感触に私の体は包まれる。
小鳥遊に抱き上げられたのだ。
体温の刺激。首筋に触れる銀の感触。微かな体臭。
それはお兄ちゃんのものとはあまりにも違う。
【小鳥遊】「話し合いましょ?」
【八重】「もがっ!」
薄い唇が至近距離で歪む。自分の眉毛が八の字になったのがわかる。
……訂正、小鳥遊はもはや小鳥遊ですらない。
私の中では今から『変態』と呼んでやるって決めた。