little_bird
私の名前は長谷部八重。年は十六。
五つ違いのお兄ちゃんがいて、その人は私のことを愛していて、甘やかしてくれて、何でも欲しいものは買ってくれる。
だから、知り合う人は口々に言う。
『素敵なお兄さんね、うらやましいわ』……って。
【八重】「……遅い」
時計はすでに午前七時。なんと、徹夜をしてしまった。
机の上には私の作った生姜焼きとほうれん草のおひたし。お鍋には作り過ぎたあさりのお味噌汁がある。
(帰って来るって言ってたのに、どこで何をやってるのよ)
私の住んでいるこのマンションは、もちろん私のものじゃない。
お兄ちゃんが三十五年ローンというバカくさい奮発をして買ったものだ。
私たちには親がいない。
……お父さんは私がお腹にいる時に蒸発して、お母さんももういないから。
元々住んでいた家はある事件があってから引き払うことになって、お兄ちゃんはここを買うまではひとり暮らしをしていたらしい。
本当はそのまま住むことも出来たけど、たぶんお兄ちゃんも嫌だったんだろう。
ずっと、あそこで生活するのは。
あそこには私もお兄ちゃんも思い出したくない、たくさんの出来事があったから。
逃げだ、逃避だと笑うなら笑えばいい。
私たちの痛みを、関係のない他の誰かにわかってもらおうとは思わないから。
……お兄ちゃんは新しい『我が家』を買った。
綺麗なタイルが一杯の、3LDK。五階の端っこ。
そこで私たちは、世界でたったふたりの家族として暮らしている。
親に先立たれた可哀想で健気な仲睦まじい兄妹。
それが私たちの世を忍ぶ仮の姿。
……そう、仮の姿なんだ。……なんだったら。……文句ある?
【八重】「ああもう! 嘘つき! 約束やぶり!」
【八重】「もう、お兄ちゃんのご飯なんて作ってやんないんだからーーー!」
○チクタク。時計の音。
【八重】「ぐうう~……なによなによなによ! 人がせっかく気が向いて、ご飯作ってあげたのに!」
【八重】「帰ってこないってどーゆーーこと? 携帯でちょっとメールいれれば、納得すると思ってるの?」
【八重】「もうもうもう、ゆるせなーい!」
そうだ。お兄ちゃんと私は、可哀想で健気な仲睦まじい『兄妹』なんかじゃない。
そう、言うなれば『姉』と『弟』。
全然お兄ちゃんはお兄ちゃんなんかじゃない。
私が面倒を見てあげてるのだ。
だって、お兄ちゃんときたら、あれだけ私に酷い目に遭っているのに、すぐに人を信じるんだもの。
たとえば新聞の勧誘とか、たとえば新興宗教の説教だとか。
放っておいたらどこかの国に進んで監禁されに行くかもしれない。
それくらい、私のお兄ちゃんは頼りない。
○チャイムとドアが開く。
【七緒】「ただいまあ~~、やえ~」
【八重】「……!」
ばたばたとした物音。ぐんりょりした脱力型のこの声はまさしくお兄ちゃん。
時刻は朝七時三十七分。
(いつもより上機嫌に帰ってくるなんて!)
最低、バカじゃないの、信じられない!
もっと申し訳なさそうに帰ってきなさいよ!
○暗転。
【八重】「ちょっとお兄ちゃん! 今、一体何時だと思ってるのよ! 第一、どこでなにをして、どーすれば、朝帰りなんて選択肢を選ぶのか!」
【八重】「私にはぜーんぜん、理解できなーーーーーーー……っ」
……そこで息が止まった。
……止まらざるを得なかった。
だって、そこには。
私が一番見たくないモノがお兄ちゃんと並んでた。
【長身の男性】「お邪魔しま~す」
【七緒】「たらいま~」
【八重】「な……なんで、あんたがお兄ちゃんを連れてきてんのよーーー! たかなしーーーーーーーーーーーっ!」
右の、それなりに整った顔立ちをでれっと崩しているのが私のお兄ちゃん。
長谷部七緒と言う。童顔であんまりそうは見えないけど、『小鳥遊フォトクリエイション』という会社で経理事務をやってる。
そんで、左の男っていうのは。
天敵。悪魔。ビルから投げ捨てたいやつナンバーワン。
ああ、名前を言うのも本当はイヤなのよ。
キザったらしくてわざとらしい、いかにも芸能ぶった名前だし!
小鳥遊小鳥(タカナシ・コトリ)。
お兄ちゃんの勤めてる会社のひとり息子で、キザで、顔だけはいいカメラマン。
……本当に、顔だけしか良くないけどね!
【七緒】「とっ……わ」
【小鳥遊】「とっとっと、七緒。危ないよ。しゃんと立てって」
【七緒】「ん、あ……ごめんなさい。小鳥遊さん……こんなに酔ったの、久しぶりで……」
【小鳥遊】「ったく、元々そんな強くないのに、無理するからだよ」
【八重】「……ちょっと、私の質問に答えなさいよ!」
【七緒】「……ぐっ!」
○七緒、ばたんと倒れる。
どかん、と右足に蹴りをくれてみる。もちろんお兄ちゃんはノーガードだ。
ついでに小鳥遊にも、と思ったけど危険を察知したのか、そいつはすんなり崩れるお兄ちゃんを手放した。
その仕草がまた格好よくて、ムカツク。
高そうなあのスーツをどうやって合法的にダメにしてやろうかしら。
(……お兄ちゃんにベタベタしやがって)
そう、なんでこいつがムカツクって、お兄ちゃんと仲良くしようとしてるのが見え見えだってこと。
友達を作るのはいい。
私もそこまで嫉妬心は強くない。
けど、こいつだけは勘弁して欲しいだけ。
こいつでさえなかったら、新聞の勧誘員だって、宗教のおばさんだっていいから。
どうしてって言われれば、答えはひとつ。
(なんとなく、ゼッタイ、イヤなのよ!)
……文句ある?
【小鳥遊】「……大丈夫か、七緒。相変わらず愛されてないねえ」
【七緒】「あはは、そ、そんなことないんですけど。た、たまたまですよ。八重、ほら。ちゃんと小鳥遊さんにご挨拶なさい」
めっ、視線で私に屈辱を促すお兄ちゃん。
小鳥遊はいつものあのニヤニヤ笑いだ。
今時長髪なんてダサイと思うんだけど、むかつくことにこいつだとおしゃれに見える。
す、と長い黒髪をかき上げるとき、動作を変えようと背筋が細くねじられるときなど、特に思う。
……だからよけいむかつくんだけど。
【小鳥遊】「おはよう、八重ちゃん。今日もかわいいね」
【八重】「おはようございます、小鳥遊さん。お兄ちゃんを送って下さって、どうもありがとうございました」
【小鳥遊】「いえいえ。僕が潰しちゃったんだから、当たり前だよ」
【八重】「いえいえ、お忙しい小鳥遊さんにご迷惑をかけるわけにはいかないですから、これからはその辺にほっぽいてくれれば」
【小鳥遊】「そんな責任感の無いことは出来ないよ。それに、気にしないで。僕は全然迷惑だなんて思ってないから」
【小鳥遊】「……それとも、八重ちゃんにとっては迷惑なのかな?」
【八重】「……ぐ」
【小鳥遊】「そんなことないよねえ」
【八重】「も、もちろんですよ。ほほほほ」
【小鳥遊】「あはは、だったら良かった。じゃあ、これからも飲みに誘わせてもらうから」
【小鳥遊】「残念だな、八重ちゃんは未成年で。ごめんね?」
そう言って、小鳥遊はニヤニヤ笑いを子どもっぽい笑顔に変えた。
大人の女の人を騙す笑顔。
それに私は精一杯の抵抗運動。
【八重】「いーえ、おかまいなくっ!」
……渾身の笑顔。どーだまいったか。このかわいさ。
ぐっと握り込んだ拳にくいこむ爪が痛い。
だけど、その痛みがないと、今すぐわめきだしそうなのだ。
……ああ、言ってやりたい。
あんたに挨拶するだなんて、お兄ちゃんに言われなかったらしないのにって。
【七緒】「あ、ごめん。八重。もしかして、ご飯待ってた?」
テーブルの上のご飯を見て、お兄ちゃんは慌てて謝る。
……すでにお肉は冷え切っていて、白い脂が膜となってソースに沈殿していた。
【八重】「私は食べちゃったわよ。それは、作り過ぎちゃっただけ」
大嘘をついてみた。
すぐばれる嘘。
【七緒】「う……いや、その。ごめんなさい」
殆ど泣きそうな顔をして、お兄ちゃんはうなだれる。
そりゃそうだろう。こんな状況で、そんなのホントのわけない。
だけどこれくらいの復讐は、私には権利がある。絶対。
【八重】「……お兄ちゃんの分なんてないよっ。……じゃあ、私、寝るから」
【七緒】「……八重……」
そうだ、もっと反省しろ。
最近仕事が忙しいのはわかってる。
お兄ちゃんの仕事は三月と九月と十二月が忙しいんだって、ちょっと調べればわかることだもの。
お金を稼ぐのが大変なのは、私だってわかるから、それについては何も思わない。
……だからご飯も作ってみようと思ったし、帰ってきて家に電気がついてないのは嫌だろうと思ったから待ってたし、パジャマにも着替えないでかわいい服でいた。
……なのに、朝帰りの上、小鳥遊を連れてくるなんて。
最大の裏切りだ。
【小鳥遊】「待って待って、八重ちゃん。今日は僕が七緒をつきあわせたんだよ。どうしても先方に気にいられたい接待があってね」
【八重】「接待? だってお兄ちゃん、経理でしょう。全然関係ないじゃない」
【小鳥遊】「普通ならそうなんだけどね。なあ七緒」
そう言ってあごをしゃくる。
まるでお兄ちゃんに『話せ』と命令しているみたいだ。
【七緒】「あ、ああ。そうなんだよ八重。今日のお客さん、前、僕がバイトしてた会社の店長でさ」
【八重】「え?前って……どれくらい前?」
【七緒】「ん、三年くらい前かなあ。まだ八重に会えなかった頃」
【八重】「……ふーん」
三年前。一番私が、お兄ちゃんを憎んでいた頃だ。
手紙を破き、写真を呪い、天に罰を祈っていた頃。
【七緒】「その店長さんの娘さんが、今度お見合いをすることになってさ。せっかくのお見合い写真だから綺麗に撮りたいじゃない?」
【七緒】「で、うちに電話をかけて来て……たまたま取り次いだのが僕だったんだ」
【八重】「ふーん……でも、お兄ちゃんの会社って、芸能人御用達じゃなかったっけ?」
【八重】「それなのに素人の見合い写真なんてショボイ仕事、どーして接待なんて必要なのよ」
『小鳥遊フォトクリエイション』は主に雑誌のグラビアを専門に撮っている。
小鳥遊のお父さんはその筋では有名なカメラマンで、マスコミ系の仕事が多い。
このニヤケ男はその偉大なお父さんの不肖の息子で、専門はアイドル。
……そりゃそーね、と納得したのも記憶に新しい。
ま、お兄ちゃんの勤めてる部署はスタジオとは別の場所にあるらしいから、芸能人なんて全然見ないらしいけど。
【七緒】「ああ、その店長さんってのがすごい人なんだって。知らない? 最近色々なところに出来てる洋菓子店。『サクラファーム』っていう」
【八重】「……知ってるけど?」
苺のババロアがすごくおいしいとニュースで紹介されて、大ブレイクしたお店だ。
現在、怒濤のチェーン攻勢で各地にお店が出来ている。
【七緒】「そう、いつか八重にもおみやげで買ってきたでしょ。あれ、昔僕がバイトしていたケーキ屋さんが母体でね」
【七緒】「あのババロアも当時、僕が手伝ってたんだよ」
【八重】「ええっ! お兄ちゃんが!?」
手先は器用だと思ってたけど……おそるべし。
【七緒】「僕はすっかり忘れていたんだけど、向こうの店長さん……いや、えーと。今は社長か。その人は僕のことを覚えていてくれて」
【七緒】「それで、今日は誘われて遅くなっちゃったんだ」
【小鳥遊】「そそ。サクラファームは今、勢いのある会社でしょ。
社長さんは女の子向けの広告展開を色々考えていて、だったらうちにもおこぼれに預かりたいって、接待して来たというわけ」
【八重】「……あんたのとこ、写真屋でしょ。おこぼれなんてあるの?」
【小鳥遊】「うち、広告もやってるんだよ。今時写真だけじゃ食えないからね。ま……あの社長さんと知り合えるなら、見合い写真ぐらいロハで撮ってもいいかな」
そう言って小鳥遊はふふん、と笑った。
……よくわかんないけど、サクラファームってスポンサーが小鳥遊の会社にとってはおいしいカモなんだろう、というのはわかった。
この小鳥遊、確かにいけすかないやつだけど、腕はくやしいことに良い。
こいつが撮ったら確かにどんな素人でも七割増しに写るだろう。
だけど、小鳥遊はよく仕事を断る。
『不細工は撮りたくないんだよね』
うちに来て、お兄ちゃんと話しているとき、よく小鳥遊が口にした言葉。
その小鳥遊が無料で素人を撮るなら、それは相応の見返りがあってのことだろう。
【小鳥遊】「そういうわけで、社長のハートをゲットするためには七緒の協力が必要だったわけさ」
【小鳥遊】「許してあげてくれないかな。仕事とはいえ、ここまで怒られているのを見ると、悪いことをさせたようで申し訳ない」
【七緒】「い、いえ。小鳥遊さんが謝ることじゃ。……八重、ごめんね、仕事だったから。別に、八重をないがしろにするつもりはなかったんだよ」
ますますビクビクしながらお兄ちゃんは私を見下ろす。
……小鳥遊もじっと私を見ている。
……しょうがない。
【八重】「……いいわよ。じゃあ、サクラファームのババロアで手を打ってあげる。そんなに仲良くなったのなら、簡単でしょ」
【七緒】「あ、ありがとう! 大丈夫、たくさん買ってきてあげるから」
そう言ってお兄ちゃんはふにゃ、と笑った。
……まだお兄ちゃん、酔っぱらってるよ。
しょうがないなあ。
……ほんと、私がついてないとダメなんだから。
【小鳥遊】「やれやれ、よかった。それじゃ、僕は帰ろうかな」
【七緒】「あ、小鳥遊さん。ご迷惑おかけしました」
ぺこり、と頭を下げるお兄ちゃんに、小鳥遊は薄い唇を上品に曲げて微笑んだ。
……ほんと、顔だけはいいんだけどな。こいつ。
【小鳥遊】「いや、こちらこそ。またよろしくな。七緒。明日も早いし」
【七緒】「はい、そうですね」
……ちょっと待て。
【八重】「またって、明日ってどういうこと」
【七緒】「え?」
だって明日は日曜日で休みのはずだ。
しかも世間は春まっさかり。
街は暖かくにぎやかで、私も明日の塾はお休み。
だからお花見とか、買い物とか、映画に行きたいのに。
もちろん、荷物持ちは絶対絶対……必要だし。
だから。
【小鳥遊】「悪いね、八重ちゃん。しばらく七緒、借りるよ。これでもうち、彼には期待してるんだ」
いかにも高そうなスーツの端をひるがえし、小鳥遊はまた、薄い唇を歪めて笑った。
あまりにもそれは美しく、優雅だったので、私は不覚にもよろめいた。
お兄ちゃんはのんきにそいつを玄関まで見送り、冷え切ったご飯をレンジでチンして食べ始める。
そうしてようやく、思い当たった。
……そう、これは宣戦布告なのだと。