夕闇が迫っていた。
春の気配はすでに隅々に行き渡り、そこかしこに緑の破片がのぞいている。
白いタイルでしきつめられたエントランスを小鳥遊と一緒に渡る。
管理人のおじさんが、小鳥遊を見ていぶかしげに問いかける。
それに小鳥遊はあの微笑で受け答え、泣きはらした私の顔をその大きな体で遮った。
よくある、凡庸な言い訳におじさんは安心して、また掃除に戻っていく。
私たちはそれを見送って、エレベーターのボタンを押した。
【八重】「ただいま」
いつものように声をかけても、待つ人はいない。
お兄ちゃんはまだ帰ってきていない。
ここには私ひとりだ。
【小鳥遊】「八重ちゃん、今日はピザでいい?」
後からついてきた小鳥遊が携帯を耳にかけながら、私に問う。
そういえば食材を買ってこられなかった。
【八重】「なんでもいい」
【小鳥遊】「じゃあ、頼んじゃうね」
もはやメニューを見る気力もなかった。
泊まるのだったら泊まればいい。
部屋は別なんだし、ホモなんだったら襲われる心配もないだろう。
何も心配はいらない。
……ただ、私の胸の、この感情以外は。
【小鳥遊】「八重ちゃん。こっち来て」
自分の部屋のドアに手をかけた瞬間、小鳥遊の電話が終わった。
聞こえない振りをしようとしたけど、だめだった。
小鳥遊はまっすぐに私に向かってくる。
そしてのぞき込む。
【小鳥遊】「八重ちゃん、僕は君と話すためにここに来たんだ」
【八重】「……」
【小鳥遊】「僕は君に秘密を打ち明けた。けど、だからって君の秘密を暴こうなんて思ってない」
【小鳥遊】「ただ、僕は……好きな人の妹が苦しんでいるなら、手を貸したいと思ってるんだ」
【八重】「小鳥遊さん……」
【小鳥遊】「こんなこと、なな……いや、お兄ちゃんがいたら話せないだろ?」
【小鳥遊】「……僕ならわかる。君がどういう苦しみを持って、あいつのそばにいるか。君と僕は同じだから」
【八重】「……っ」
変態が私に向かって真剣に語りかけてくる。
同じだっていうの。こいつが私と。
ホモなんて気持ち悪いものと、同じだっていうの。
お兄ちゃんが知ったら、きっとこいつなんて軽蔑されて、拒否される。
『そんなやつだと思わなかった』
……きっとそう言う。
『僕はそんなつもりで君と仲良くしてたんじゃない』
……きっとそう言う。
『……もう二度と僕には関わらないでくれ』
きっと。そう。
『……八重』
【八重】「……こんなの、こんなの違う。好きじゃない。全然好きじゃない。そうじゃなかったら困る。困るの」
【八重】「だってそんなの、お母さんと一緒じゃない……!」
見てた。……私は見てた。
お兄ちゃんが苦しんでいるところ。
あの影を見ていた。何も出来ずに。
お兄ちゃんが女の人に弱気なのは、あのことがあるから。
……だから、私だけは女になったらいけないのに。
……妹でなくちゃいけないのに……!
【小鳥遊】「……八重ちゃん」
【八重】「……あんたなんか、大嫌い。変態は変態らしくしてよ。私のことなんて構わないで……!」
【小鳥遊】「……」
○八重、小鳥遊に抱きしめられる。
いきが、止まる。
【八重】「……っ」
小鳥遊の腕が、私の背中と髪を抱きしめた。
吐息が首にかかる。
私の唇がシャツの襟に触れる。綺麗に糊のついた、清潔な白。
お兄ちゃんとは違う、筋肉のついた胸の感触。
男の人の香水の匂い。
【八重】「……や」
【小鳥遊】「何もしないよ、これ以上は。僕は変態さんだろう?」
【八重】「……っ」
そう耳元で囁いて、小鳥遊は私の髪を撫でた。
それはもう止められない程甘く、暖かで、春の匂いがして、せき止められない。
春が来れば、種は殻を破って太陽を求める。
それは生きているなら当たり前のこと。
だけど、この気持ちは。
……当たり前に背く気持ちだ。
【八重】「……小鳥遊さんは、お兄ちゃんに告白するの?」
【小鳥遊】「ん~……どうしようかな。考えてはいるけど」
【小鳥遊】「もしだめだったらと考えると、二の足を踏むね。これでも同じ会社に勤めてるわけだし」
【八重】「……気持ち悪いって言われたらどうするの」
【小鳥遊】「立ち直れないなあ、それは」
【八重】「……そうよね」
小鳥遊はたぶん、振られたことなんてないんだろうし。
その一発目が『気持ち悪い』なんて台詞だったら、それはショックだろうと思う。
【小鳥遊】「でも言うよ。言わないでいる方が、僕は耐えられないから」
【八重】「……そんなもの?」
【小鳥遊】「性格だね。少しでも見込みがあるなら、やってしまえって思う性質だから」
【小鳥遊】「万が一があるかもしれないって、何に対しても思うんだよ」
【八重】「……あきれた。……脳天気な人ね」
【小鳥遊】「自分でもそう思う」
その言葉の後に、本当に困ったようなため息が聞こえた。
それは私の髪を揺らし、私を拘束する腕を少しだけ緩めた。
今なら腕をふりほどいて逃げられる。
つきとばして、変態って叫べば、誰かがきっと駆けつけてくれる。
それで小鳥遊はジ・エンドだ。
強制わいせつ罪とかで、さっさと刑務所にでも行けばいい。
だけど、私は、それが出来なかった。
小鳥遊は嫌なやつで、敵で、ホモで、私のお兄ちゃんを盗ろうとしているやつなのに。
【八重】「……小鳥遊さんって、ばかだね」
そんなことを言って、小鳥遊の胸に自分から顔を埋めた。
【小鳥遊】「八重ちゃん」
意外そうな小鳥遊の声が耳に響く。
自分でも意外だった。
……嫌じゃないんだ。……なぜか、嫌じゃない。
……どうしてだろう。
【八重】「……お兄ちゃんって可哀想。変態ばっかりに好かれちゃって」
小鳥遊の手が優しいのがいけない。
顔も立ち姿も、服も匂いも違うのに。
どうして撫でる手だけは、お兄ちゃんと一緒なんだろう。