ぽんぽんぽん、とぬいぐるみを叩く。
封印された右手をなだめるように。そう、私は今、右手を封印している。
くりだせば必殺のコークスクリュー。解けば目の前のすべての物体を粉砕するだろう。
だから我慢している。らしくないとは思うけど。
殴りたいものを殴れないのはストレスだ。
だけど、今はまだ我慢する。これがあればしばらくは大丈夫。
右手にふわふわと触れる熊の感触。それは私のささくれた心を癒やす。
だってこれは、お兄ちゃんに買ってもらったものだから。
【七緒】「……あー、だからね。し、しばらく店長さんが泊まりにおいでって言ってくれてて……」
【八重】「だから、なんで」
【七緒】「……と、当時住み込みで働いてたからさ。僕は不満なんかじゃなかったんだけど」
【七緒】「社長さんは僕を不憫に思ってくれてたらしくって……」
【七緒】「その、当時の不義理を返したいから、うちに来てしばらくくつろげって……。ご招待をね……」
【八重】「……で、そこには店長の娘ってのがいるのよね。お兄ちゃんが少し好きだったっていう」
【七緒】「い、いや、その……と、当時高校生だったから! 沙耶子さんは綺麗だったし、恋人もいたから、何もないんだって!」
【八重】「ばかっ! お兄ちゃんは騙されてるーーーーーーーーー!」
思わず立ち上がって、大声を上げた。
【七緒】「わっ!」
【八重】「なんでわかんないの? お見合い写真なんて撮るってことは、要するに嫁き遅れじゃないっ!」
【八重】「お兄ちゃん、めちゃくちゃ目をつけられてるじゃないのっ!」
聞けば沙耶子という女は二十七歳。確かに適齢期ってやつは過ぎはじめだ。
真面目だけが取り柄のお兄ちゃん。
……行けば適当に言いくるめられて、一週間後には挙式ってことになりかねない。
なにせ、お兄ちゃんは女の人に免疫がない。
人並みにはあるんだろうけど、『女の毒』ってものに免疫がないのだ。
この私と暮らしているにもかかわらず。
それに、もう私はわかってる。これは小鳥遊の罠だ。
サクラファームにうま味を感じているあの蛇は、お兄ちゃんを生贄に捧げようとしている。
なんてやつ。だから金持ちって嫌い。
金のためにはなんだってするんだから。
【七緒】「騙されてないよ。店長さんと沙耶子さんはいい人だよ」
【八重】「昔は良くても、今は違うかもしれないでしょ。それに、お兄ちゃんがいなくなったら、どうやって私は生活するのよ」
【八重】「三日もここにひとりで暮らせっていうの?」
泊まりの期間は三日だと言う。
豪邸満喫のお兄ちゃんは楽しいだけで過ぎるかもしれないけど、私はここでいたって普通の生活だ。
お兄ちゃんと暮らし始めてまだ一年足らず。
高校には一年遅れで入る。
施設にいくらお金が振り込まれていたとしても、私みたいな境遇の子にとって、進学っていうのは難しいことだ。
成績がすごくいいとかなら別だけど、私はいたって並だった。
だけどお兄ちゃんに引き取られてから、私はずいぶん勉強漬けになり、今年から家の近くの高校に編入することになっている。
これはお兄ちゃんの教育方針らしい。……まあ、学校に行けるのは嬉しいけど。
だけど二年生からの編入だ。不安がないわけない。
それをお兄ちゃんは十分理解しているはずだ。なのにそんなことを言うのか。
まったく許し難い話だ。
……仕事と私と、どっちが大事なのよ、と思う。
お兄ちゃんの選択肢なんて、もう決まってるのに。
私が一番。私が最優先。……私がいつも一緒じゃないとダメなんだから。
明日は絶対に買い物に行きたいのだ。
学校の準備は、お兄ちゃんとするって決めてたんだから。
第一、お兄ちゃんは私の保護者なんだから、つきあうのは当たり前じゃないの。
【七緒】「あの、そ、それなんだけどね」
【八重】「なによ」
黒目を潤ませて、私を見る。……犬っぽい。
……この目をするときのお兄ちゃんには気をつけなくてはならない。
時折、とんでもないことを言い出すんだから。
【七緒】「その、僕がいない間、小鳥遊さんにここで暮らしてもらおうかなって……」
【八重】「……」
○ 八重、めまいがする。
とんでもないにも程がある。
……何を言い出すのだ。こいつは。
【七緒】「あのね、その……八重はなんだか小鳥遊さんにつっかかるけど。小鳥遊さんは八重のこと、気に入ってるんだ」
【七緒】「あの、知ってると思うけど、小鳥遊さんカメラマンだろ。初めてうちに来たとき、すごい美少女だねって褒めてくれたじゃない」
【八重】「……覚えているわよ。……忘れもしないわ」
最初の小鳥遊の印象は、実はそんなに悪くなかった。
すらりとした長躯の、美形カメラマン。
まあ、私のお兄ちゃんの知り合いとしては合格って思った。
だけど。
【八重】「この年でこれだけ綺麗だと未来がないなあ、って言ったのよねっ!」
【七緒】「う……」
そう、その一件以来、私はあいつを敵と認めた。
……だからあいつが来るときは、絶対にメールで知らせろ、とお兄ちゃんには言い含めてあったのに、お兄ちゃんはその約束も破った。
本当に……むかつく。
【七緒】「でも、小鳥遊さんが八重と仲良くなりたいのは本当なんだよ。僕だって小鳥遊さんは信用しているし。僕の面接をしてくれたのは小鳥遊さんだし」
【八重】「恩人だって言いたいの?」
【七緒】「そ、そうそう。それ。それに小鳥遊さん、子どもには興味ないって言ってるから、一緒に住んでも……」
【八重】「……」
じろり、とねめつける。
【七緒】「え、いや、八重が女の子として魅力がないって言ってるんじゃないんだよ。でも、女の子ひとりでここにいるのは危ないでしょ」
【七緒】「元々、面倒を見る件は小鳥遊さんが言い出してくれたんだ。それがなかったら、僕も申し出は受けにくかったんだけど……」
【八重】「へー……小鳥遊が……ね」
それでわかった。……要するに。
小鳥遊はお兄ちゃんを私から引き離し、都合の良い手駒にしようとしてるわけだ。
私が来る前のお兄ちゃんは、仕事人間だったらしい。
お兄ちゃんの昔の給料明細を掃除の時に見つけて、びっくりしたことがある。
ものすごい残業時間。そりゃもう、夜も昼もないような。
だけどその分の『報酬』は、なんだかあまり入ってない金額に見えた。
でも……私が来てからお兄ちゃんは変わった。
朝に起きて、夜帰ってくる。土日は休んで、私と過ごす。
食事は自炊。ふたりでスーパーに行き、安いお醤油とサラダ油の特売に並ぶことだってある。
たぶん、お給料が下がったんだと思う。
暮らし始めた最初の頃は、よく携帯がブルブルと鳴っていた。
だけど、それももう遠い。
お兄ちゃんと私は、ちょっとケンカしながらもうまくやってる……と思う。
だけどそれは、『小鳥遊フォトクリエイション』という会社にとっては都合が悪いことだったに違いない。
それからだ、小鳥遊がよくうちに来るようになったのは。
……そして、今回のこと。小鳥遊は会社にお兄ちゃんを取り戻そうとしてる。
だから、私を潰しに来たのだ。
【八重】「嫌だからね」
【七緒】「八重」
【八重】「私、絶対にお兄ちゃんを泊まらせたりなんてしない。認めない。どうしても行くなら、私も行く」
【七緒】「そ、それは困るよ」
【八重】「だったら決まり。この話は断る。はい、携帯」
お兄ちゃんの高そうな携帯電話がぽーん、と放物線を描いてソファに落ちる。
【七緒】「物を投げたらだめだよ、八重」
【八重】「……早くかけて。小鳥遊さんに」
だけど、甘い。小鳥遊の思うとおりになんてさせない。
だって、私たちは家族だ。世界でたったふたりの家族なんだから。
お兄ちゃんは最後には絶対、私の味方。
私の言うことを聞くに決まってるんだから。
……なのに。
【七緒】「……だめ」
【八重】「え……?」
きっぱりとした口調で、お兄ちゃんは言い切った。
【七緒】「……とにかく、これはお仕事だから。八重は小鳥遊さんとお留守番していて」
【八重】「お兄ちゃん?」
そんな……そんな馬鹿な。
……お兄ちゃんが。私に。この私に……逆らうなんて。
【八重】「なんで!?」
【七緒】「……お仕事だから」
【八重】「私が行くなって言ってるのに!?」
【七緒】「……八重」
【八重】「小鳥遊がもしも私を襲ったら、お兄ちゃんはどうするのよ? それでもいいって言うの!?」
【七緒】「小鳥遊さんはそんなことしないよ。……いい人だよ」
【八重】「お兄ちゃんの人を見る目なんて、信じられない!」
ソファから思わず立ち上がって怒鳴った。
手にはお兄ちゃんのくれたぬいぐるみ。
耳のところをこれでもかってくらい掴んだ。
そうしないととても押さえられない。
……封印を解いてしまいそう。
【八重】「やだ。やだやだやだ! そんなの私は許さない!」
【七緒】「八重、聞き分けて。定時帰りを認めてもらってるんだから、たまにはご奉仕しないと、僕は会社に居づらくなってしまうよ」
【八重】「だったら、小鳥遊の会社なんてやめればいいじゃない!」
【七緒】「そういうわけにはいかないよ。僕は八重にいい環境で勉強して欲しいし、ご飯だっておいしい物を食べてもらいたい」
【七緒】「そのためにはお金がいる。……そうでしょ?」
【八重】「だったら、私も働けばいいんでしょ? いいわよ、高校なんて行かない!」
【七緒】「八重!」
その声のあまりの厳しさに、思わず身がすくんだ。
……怒られると、暗い影を思い出す。
もう残っていない傷の痛みを思い出す。
頭を振った。あんなの、もう遠い過去。今は違う。
……今は違うんだ。
【七緒】「……ご、ごめん。八重」
【八重】「……」
【七緒】「怒ってなんかない。……違うんだよ」
私の顔色が変わったのがわかったのか。
お兄ちゃんはいつものお兄ちゃんに戻る。
大きな手がふわり、と頭に触れて髪を乱した。……温かい。
【七緒】「とにかく。……これは決まったことだから。……聞き分けて」
【八重】「……お兄ちゃん」
【七緒】「すぐ帰ってくるから。……じゃあ、僕、支度するね」
【八重】「お兄ちゃん!」
お兄ちゃんはそうして私から離れ、ひとり部屋に戻っていった。
荷造りをするのだろう。
それが。
……まるであの時みたいで。
……行っちゃう。
……行ってしまう。
……もう会えるはずない。
……嘘つき。
【八重】「嘘つき……」
……あのさみしい冬の日を思い出させた。
○ 七緒が部屋のドアを閉める。
【七緒】「……いってきます」
ドアの向こうのその小さな呟きに、私は耳を塞いだ。