二 発熱
熱く発熱する何かを抑えながら、水差しに手を伸ばす。……少しでも怒りを冷やすために。
「……大丈夫ですか」
「……そう見えるなら、お前はバカだ」
「……すみません」
カラカラに渇いた喉を、生温い水が潤していく。空になった水差しを目の前の男に放り投げると、すぐさまベッドに横になった。ただでさえ古いスプリングは自分の重みで酷く軋んだが、知らない振りをする。それが水差しを手に呆然と立ち尽くす彼に、浅くない傷を与える音だとしても。
「……私の、せいですよね……」
わかりきった謝罪を繰り返すのは、自分に自信がないせいだろう。
かつて自分と彼がいた世界では、ふたりの距離はあまりにも遠いものだった。こんなところに落されでもしなければ、たった一度言葉を交わすことすら、なかったに違いない。
——その距離は、たとえひとつの部屋に暮らしていたとしても、そうそうは縮まるものではない。
(どうして、こんな奴が生き残ったんだろうな)
疼く額の端を抑えながら思う。どうして自分と彼なのだろう。他の誰かではいけなかったのか。
せめてもう少し賢い奴が残れば良かったのに、と。意地悪く思いを打ち明けることもある。そのたび、彼は困ったような、悲しいような、微妙な微笑みを浮かべ、すみませんと言葉を繋ぐ。
何度も繰り返した謝罪の姿が、今日は特に気に触った。
「……お前のせいじゃないとでも、言って欲しいのか」
「そんな、事は……」
「だったら、謝るのはもうやめろ。むかつく。……それと、弱いくせにでしゃばるな」
「……すいま……あ……」
そんな間違いはするだろうな、とは思ってはいたものの、いざやられると本当にむかついた。枕の端からじろりと睨んでやると、そいつは鼠のように丸まった。
「……サフィルス」
「な、なんです? ジェイド」
「……俺に悪いと思っているならな」
「はい?」
「しばらく、出て行け。……顔も見たくない」
「……ジェイド……」
傷ついたとばかりに歪む眉を、目の端に残しただけで、閉じた。暗闇の中でしばしの物音がすると、扉の閉まる音がかすかに聞こえた。
「……」
彼は甘く、幼い。自分とは違う。
清らかなる地と崇められたあの場所に相応しく、優しさと慈悲だけを糧にして生きていこうとする。この地にあってまで。
なのに、あの世界で彼は大多数の雑魚のひとりでしかなかった。額に伸ばした手に触れる赤い石すらも、彼は持たない。神の使いと呼ばれるならば、彼のほうがずっと相応しいのにも関わらずだ。
それはとりもなおさず、天の限界を知るということだ。
(……腐ってんのさ)
上手く、ずるく、そう立ち回れば。……手段なんて選ばなければ。そう生きられれば、印なんてものはいくらでも手に入るのだ。
叡智の象徴だと上の「奴ら」は言っていたが、なんのことはない。ただ、自分の駒になる奴かどうかを選別しているだけだ。そして選ばれながらも、自分は駒から外れようとした……。
——額の痛みが増した。
「……おい、サフィルス。包帯……」
ついそう言ってしまった。……誰も、答えるはずなどないのに。
「……ふん、ばからし」
ベッドを抜け出し、傍のテーブルに乗っていた箱を覗いた。きちんと整頓され、並んだ薬の包みをかきわけて、まっさらな包帯を取り出す。上手く巻けないことなんてわかっていたから、鏡を覗いた。
——そこには、目つきの悪い血だらけの男がいる。思わず石のあたりをひっかいてしまい、流血は各方面に広がってしまっていた。
「ったく、顔はそこそこ自慢なんだがね。……ああ、いて」
金を作るために、無茶な仕事をしている。あのセレスと名乗る「使い」の最初の命令は、王家に潜り込むことだった。
半端な要求ではない。ただ生きていくだけでも難しいこの奈落で、最高機関の中枢への潜入を果たせ、とは。
だが、やるしかないこともわかっている。そのために身の毛もよだつ儀式を終え、こんな暗闇の端っこで、同胞殺しに手を染めているのだから。
——狂った彼らは、痛みすらも忘れるのかもしれない。酷く強かった。天使は手抜きなどしていては勝てない相手だ。なのにサフィルスは。
躊躇いは死を招くとあんなに言い聞かせたのに、迷った。
……とっさに、庇った。結果は簡単、傷はそのまま自分に刻まれ、直撃は免れたものの、右目の端は引き裂かれて、恐らく元の視力を取り戻すことはない。
その宣告を誰よりも青く聞いたのは、彼だったろう。自分ではなく。
何度も繰り返される謝罪。どんなに言葉を重ねても、この目が元のようになるはずがないのに。
……だから気に触るのだ。どうにもならないことはどうにもならない。謝っても、許されるはずはない。許す気はないのだから。なのに、彼は謝るから。許しを請うから。
(……ばーか。許すはずないだろ)
どうして庇ったりしたんだろうか。彼が今ではただひとりの自分の同胞であるからか。
それとも、もっと別の理由があったのか。答えは出ない。
「……いて」
たどたどしく巻いた包帯は、すぐに血に染まる。ぼやけた視界は薄く紅に染まったままで、自分の顔も、おぼろげにしか見えない。
(……なのに、あいつの顔はわかるんだよな)
目を閉じ、そらした間の彼も。きっと、少し口の端を歪め、眉をひそめて扉を閉めたに違いない。そして少し溜め息をついて、音を立てないように階段を下りる。その後は……わからないけれど。
窓に目をやると、光は淡いオレンジ色に移ろい始めていた。いずれ夕闇が世界を覆うだろう。
「……知るか」
思いついたひとつの案を消し潰して、もう一度ベッドに身を沈めた。大きく軋んだその音は、今度は自分の胸を引っ掻いていく。頭の痛みより、今は、それが気になった。