「悪役令嬢と極道P」新連載のお知らせBlog

SS 「The sky seen from the glasses.」

三 青い夜

 サフィルスがいなくなって、四日が経った。

「……本気でいなくなるとはな」
 音を立てて行儀悪くスープをすすってみる。いつもなら、スプーンかフォークが飛んでくるはずだ。そういうところだけ、妙にサフィルスはこだわった。
 一日目は寝て過ぎた。二日目は悪態をつきながら、また寝た。三日目はいぶかしんで、宿の外まで見渡しに行った。そして、今日。
「……さすがに路銀もつきるしな」
 目の治療は金がかかる。特に自分たちは素性が知れない。足元を見られるのは仕方なかった。
 かといって寝てばかりいれば、肝心の命令は果たせない。奈落は実力主義だとはいえ、所在の知れない荒くれ者を雇うほど、魔人の王の城は易くはないのだ。貴族的な階級もある。血筋による選別もある。
 抜け道がないわけではないが、やはり裏の道だけに足元を見られて、金はいくらあっても足りない。
「ふん……しょうがない。ひとりで行くか」
 奈落でのひとり旅など、自殺行為に等しいことはわかっている。また、ひとりでどうにかしていける程、今の自分に自信はない。焦点の合わない目は物を取るにも苦労するし、何より頭痛が酷い。元々、そんなにできた体ではないし、地上を「歩く」という行為自体にまだ違和感がある。
 それでも、やらなくてはならないのだ。自分には、死ねない理由があるのだから。
(……最初に戻っただけなんだがな)
 機会は貰った。後はただ走るだけだ。ひとりでも、ふたりでも関係ない。踊らされるなら踊ってやる。いつか、取り返せば済むことだ。……そう、思ってはいるのだが。
 机の上に静かに置かれた、その箱を思う。飲み尽くした薬の袋は散らかり、もはや茶色く変色した包帯の数々が、なんとなく自分を責めているように思う。
 ひとりでいるのは気楽だ。何にも縛られず、何にも干渉されない。孤独は自分にとって歓迎すべき空間のはずなのに、ほんの少し一緒にいただけで当たり前になり、なくなると酷く損をしたような気分になる。
 サフィルスはいつも自分に遠慮しつつ話していた。それは、天での階級差もあるだろうし、力の差もあるだろう。けして彼は強くも、賢くもなかった。自分が傷つけようと思えば傷つき、怒らせようと思えば怒った。行動パターンはすぐに読めて、あまりの単純さに少し腹が立ったくらいで。
「……もう少し、待ってやるか」
 整えた身支度を解き、もう一度ベッドに身を横たえた。西日の差し込む窓辺を眺めながら、痛む額を抑える。そうすると、ぶれた世界が少しは整うような気がするのだ。
 光はだんだん弱くなり、かぼそく窓の外へと引いていく。
 まるで、寄せることのない波のようだ。世界を満たす暖かいものは、冷たく、暗い何かへと変質していく。

 夜が来るのだ。

 目を閉じれば、風が沢山の気配を運んでくる。若葉の擦れあう音や、女たちの嬌声、首筋を微かに撫でるひやりとした風などは、ここも天も変わらない。眠りにつく時が、今や一番好きな時間なのはそのせいか。時折忘れそうになるその場所が、ちゃんと自分の中に残っていることが確認できるからか。
 落ちる前、月に向かって飛ぶのが好きだった。白い雲を掻き分けて、物言わぬ光の塊に近づこうとしたのだ。
 どうせ辿り着けはしない。そんなことはとっくにわかっていたのだけれど、それでも、気が向くと繰り返した。ただひとり、何度も。
 若い憧れだと、自分でも苦笑するしかないが、今でも本質は変っていないのだろうと思う。
 自分には手の届かないものばかり、追いたくなる。多少のことなら大抵はできたし、手に入ったから、余計に欲しくなるのかもしれない。手に入らないものばかり。
 開け放たれた窓から、半円の月が見える。
 ……時間がない。
 あの月の満ち欠けを何度見ただろうか。もう記憶にも残らない程の時間をここで過ごしている。
(今夜だけだ)
 この夜だけ、譲歩してやろうと思った。サフィルスは必要だ。少なくとも、しばらくの間は。ひとりでできることには限界がある。頭数でも、あるとないでは状況は違う。
 だから、待ってやることにした。
 ——言い訳のようにそう唱えて、目を閉じたその時。
「……」
 ドアの外で、何かが動く音がした。足音はなかった。気付かなかっただけだろうが。古びた木の悲鳴が微かに聞こえ、同時にひとつの影が滑り込んでくる。それは、見慣れた形をしていた。
「……ジェイド、起きていますか?」
「サフィルス……帰ってきたのか」
「……はい。具合、どうです?」
 余りにいつも通りの声音に拍子抜けをした。もしも帰ってくるのならば、暗い顔をしていかにもすまなさげに扉を開けると思ったから。
 微かに油が焼ける匂いがして、ぽ、と小さな光が灯った。ほの赤く照らされたサフィルスの顔は普通過ぎて、かえって妙な違和感があった。
「痛みは結構引いた。だが、薬が切れたから、明日はわからんな」
「ちょっと見せて下さい」
 そう言って、サフィルスは無遠慮に手を差し出す。
「お前に見せてどうなる。やめろ」
「いいじゃないですか。減るものじゃないし」
「減る」
「子供じゃないんですから」
 白い指が痛む部分に触れる。諦めて、そのまま触らせておいた。
「いて。……なんなんだ、一体」
「包帯、ちょっと取りますよ。こんな巻き方、邪道です。頭、痛いでしょう?」
 適当に結んだ包帯は解きほぐされ、同時に頭が少し軽くなった。ぱりぱりと音を立てて、剥がれた血の塊が粉になって落ちていく。
「ほどきにくいですね、もう。固結びって……子供ですか、あなたは」
「結べればいいだろう」
「適当ですねえ……」
 普通の。……余りにも普通の会話をする。何事もなかったかのように。
 ランプの光はこの闇の中では余りにもか細いが、サフィルスの顔色を窺うには十分な明るさだった。あいも変わらず白い肌と、張り付いたような笑顔。
(何、考えてる?)
 手際よく包帯を解いていく彼に、特に変化は見られない。別れた時のまま、服も同じだ。でも違和感がある。確かにそれはあるのだ。
「はい、取れました。……私のこと、見えます?」
「見えてなかったら、話はできんだろ。お前かどうかもわからないし」
「そうですよね。じゃあ、これ。……このカップ、取れます?」
「……」
 目の前にあるように見える粗末な影を、サフィルスは見せびらかすように振る。ちゃんと見える。見えては——いる。
「……ジェイド」
「子供に読み聞かせるような話し方をするな」
「……取ってください」
「当たり前のこと、させるな」
「ジェイド」
 二言目は、強かった。そんな彼の表情はあまり見ない。そう、たとえば行儀の悪い食事をした時くらいにしか。
「……取れないんですね」
「治っていないんだから当たり前だろう」
「……ですよね」
「なんだ。少し離れていれば、奇跡でも起こって治るとでも思っていたのか?」
 語尾が嫌味っぽくなるのは仕方ない。堂々巡りだ。何度繰り返せば気が済むのだろう、この男は。どれほど繰り返し聞かれても、問われても、彼にとって気持ちのいい答えなど出ない。出す気がないのに。
(……待たなきゃ良かったか)
 そんなことすら考える。理由もちゃんと、つけたのに。
「奇跡なんて、起こりませんよ。……今の私達なんかに」
「……サフィルス?」
さらりと軽く、そんならしくない言葉を言った。
「ジェイド、目を閉じてくれませんか」
「……なんだ?」
「プレゼントがあるんですよ。だから、少しだけ。……目を瞑ってくれませんか」
 オレンジの光に照らされた微笑は、酷く儚い。……ような気がした。
「お前、変だぞ」
「……そうですか?」
「何か、あったのか。離れた間に」
「私だって生きてるんですから、色々ありますよ」
「そりゃあそうだろうが……」
「瞑ってくれるんですか。くれないんですか」
 焦れたように、サフィルスの目が睨む。
(……閉じさせてどうするんだ)
 そんな問いすら、今の彼には言えない。ランプの芯が焦げる音が、ふたりの間を通り過ぎていく。
「……瞑ってもいいが」
「……そうして下さい」
「……何、企んでる」
「それはあなたの役目でしょう? 私はいつだって、後についているだけです」
「言え」
「瞑ってくれたら、教えますよ」
「サフィルス」
 思わず立ち上がって、声を荒らげる。立ち上がった反動でサイドテーブルが重く音を立てる。
「夜ですよ。……ご近所迷惑です」
 それすらも予定の内だと言うように、サフィルスは椅子に静かに座り続けている。それがまた余計に癇に障った。
「……言えと言ってるだろう」
「それは命令ですか? ジェイド様」
 軽く笑いながら、そんな台詞を謳うように言われた。出会って以来、そんな呼び方をされたのは初めてだった。
「……ご命令とあらば、言いますけれど」
 こんな風に自分が声を荒らげて怒るのも、そうだ。……サフィルスの目はじっと一点を見ているように見える。眼球は自分の方向を向いてはいるのだが、彼の見つめる何かは自分ではない。
「……わかったよ」
「……え」
「瞑ればいいんだろう」
 もう一度ベッドに座り直し、焦点の定まらない目で彼を見据えた。
(……見えてると思っていたのにな)
 今はふたつにぶれた彼の顔が見えるだけだ。闇の中にいながら、白く曇った霞がふたりの間に淀んでいる。頭を振る程度では、気分は晴れない。……晴れるはずもない。
「……というか、俺は寝る。……好きにしろ」
「……そうですね。それでもかまいません」
 静かにシーツをひっつかんで、枕に目を押し付けた。傷が開いて、血で汚してしまうかもしれなかったが、構わないと思った。
「……お前がわからんよ」
「そう、ですか?」
「……そうさ」
 何かをテーブルに置く音がした。プレゼントという奴だろうが、興味もない。
「……私も、あなたのこと、わかりません」
「……お前と違って、俺は複雑だからな」
「……そうですね」
「でも、羨ましいです」
「だろうよ。お前より俺はずっと有能だからな」
「……ええ」
 傷つける言葉だと知っていて、言った。なのにサフィルスはこともなげに相槌を打った。
 独り言のように幾つかの単語をひたすらに組み合わせる。それは形は変っても、ナイフのように彼の心を傷つけるだろう。
 いつもなら少しの傷をつけるだけで気が済むのに、今日だけはどうにも止めることができなかった。
(ばかやろう)
 気持ちの内は罵声だけで埋め尽くされている。けれどそんな簡単な言葉で終らせてしまうのはあまりにも我慢がならなくて、いつしか相槌が聞こえなくなっても、しばらく言葉を考えていた。
「……おい?」
 枕から顔を起こして見渡すと、そこには闇しかなかった。ランプの明かりはすでに消えて、芯の焦げる音だけが耳に障る。
「サフィルス?」
 呼び声には誰も答えない。まるで、全てが夢だったかのように、暗く冷たい、月の光が辺りを照らすだけだった。
 けれど確かにそれが現実であった証拠が、テーブルの上に乗っかっていた。触れるとカチリと涼やかな音が鳴って、冷たい質感が指に伝わる。
 ……眼鏡だった。
「……どうやってこんなもの……?」
 無色透明の眼鏡は、片側だけとはいえ、とても庶民には手の出ない代物だ。医者に担ぎこまれた時も薦められはしたが、法外な値段に諦めた。それをふと思い……気付いた。
「っ!」
 すぐさま扉を開け放して、階段を駆け下りる。
 静まり返った宿の軒先まで全力で飛び出ると、夜気がふわりと頬を冷たく撫でた。
 風が吹いてくる先には、ひとつの影がある。いつ崩れてもおかしくなさそうなうらぶれた路地裏の、ほんの少し開けた道脇に、サフィルスは小さく佇んでいる。
 夜風が黒髪をさらりと撫で、いつもは隠れて見えない彼の右目を一瞬露わにしたようだった。
 もの珍しいそれを、自分は見ることはできない。五歩も歩けば辿り着くその距離は近いようで遠く、ふたりの間に横たわる沈黙は、踏み出せば崩れてしまいそうな危うさを感じさせた。
 けれど、自分は踏み出してしまう。同じ数だけ彼は後ずさり、また追った。
「サフィルス!」
「……」
 影は何も答えないまま、ペコリとお辞儀をする。
 予想のつく、わかりやすい男。それが彼の評価だったのに、今、その影の顔色はとても読めない。たとえ目が見えていたとしても、わからないだろう。
「……使ってくださいね、それ。高かったんですから」
「どうやってこんな物、手に入れたんだ」
「何も悪いことなんてしていませんよ。ちゃんと、働いて買ったんです」
「……ひとりでか」
「ちょっと、苦労しちゃいましたけどね。それが、私のあなたにできる唯一のお詫びですから」
 屋根の間から差し込む月の光は、より一層彼の顔を不確かにさせた。白い霞みを柔らかに纏い、口のかすかな上下だけが自分に今見える彼の全てだ。
 ぼやける表情を確かめたくて、握り締めた贈り物を身につけた。
 ひやりとしたガラスの質感と同時に、世界は嫌というほど鮮明になる。くらりとした、鈍い痛みを伴って。
「詫びを入れている顔じゃないな」
「そうですか? ……そんなことはないはずなんですけど」
 今度は眉の上げ下げもわかった。悲しげに、けれどどこかどうでもよさそうにサフィルスは言葉を繋ぐ。
「……そうじゃなきゃ、そんな物を贈ったりしませんよ。ジェイド」
 そして笑う。その痛ましい演技が、ひとつの答えをサフィルスが出してしまったのだとわかった。彼はいなくなるつもりなのだ、自分の前からも、誰からも。……世界からも。
「……ふざけるなよ。今更逃げられると思っているのか」
「あなただったら、ひとりでも叶えられる。私なんて、必要ないですよ。きっとセレス様だって、そう思っていらっしゃる」
「死ぬつもりか」
「……天使に殺されたなら、天国に行けるかもしれないですよ。……それが一番、私にとっては勝ち目のある賭けかもしれません。あなたといるよりも」
「……」
 考えるより先に、手が出た。
 軽い破裂音が闇に溶ける。
「ばかか、お前は」
「……なにするんですか」
「死ぬ気なら、死ぬ気になれるなら、もっと違うことに命は使えるだろう」
「……辛いんです」
「あたりまえだ、ばか。楽な生き方なんぞ、今更俺たちにあるわけがないだろう」
「……あなたにはわからないですよ」
 そして、もう一度。
「っ」
「……どうもおかしいと思ったら。お前、腹と肩、やられてるな。ひとりで天使退治なんぞやるからだ」
「そうでもないと、そんな物買えません」
「盗めばよかったろう。そこまで覚悟があるんならな」
「そんな罪深い……」
「今更だろ。ばかやろう」
 ——怪我か、今の自分の言葉のせいか、よろりとサフィルスは地に手をついた。
「……ばかなことしやがって」
「最後くらい役に立ってみたかっただけです」
「……ばかだ、お前は」
 血の気の失せたサフィルスの顔は、青い月の光を受けて、より一層に青くなっていく。まるで死人のように。
 いや、もう彼は死んでいるのだ。体がまだ生きているだけで。けれど、それならまだ間に合う。
 ——器が、まだあるのならば。
「……立てよ」
「ジェイド……?」
「立って、役に立ってみせろよ。そんなに俺に、許して欲しいなら」
 骨が軋む音がする。……血の匂いも。さっき気付かなかったのが不思議なくらいだ。自分の流す同じ匂いに誤魔化されてしまったのだろう。
 見直せば、所々に傷を隠した痕があった。自分を見上げる彼の表情は、頑固な決意のまま止まっている。
(今更になって、そんな腹芸覚えやがって)
 最期だからこそ、そんな芸当を覚えたのかもしれない。呆れることだ。
「……私はもう、決めたんです」
「はなから賭けなんて、成立しない。それすらも気付けないのか、ばか。お前は天国になんて行けやしないよ。楽園の門は、狭いだろうしな。……ここにいるしかないんだよ、お前も俺も。……今更、忘れた振りもわからない振りもさせないぜ」
「……限界なんです。もう、できない。同胞を殺すのも、あなたといるのも、生きているのも。……何も何も、何もかも。嫌なんです。だから……」
「だから許してくれって?」
「……お願いです」
 その哀れっぽい顔を、勢いよく蹴り飛ばした。抑えた短い悲鳴をあげて、サフィルスは今度こそバランスを失い、地面に倒れ伏す。それを見下げて、最後の一言を言った。
「許さんよ。……許してほしけりゃ、もっと役に立ちな、雑魚」
「ジェ……」
「俺に許してほしけりゃ、生きろよ。俺の目の替わりが、お前程度の命で賄えると思ってるのか」
 弱すぎる心に腹が立つ。純粋で、優しくて、脆くて。自分とはとても縁遠い、綺麗な涙に、腹が立つ。
「……なんで、私と……あなたなんですか」
 濡れた声が白い月に被った。誰も答えはしない。
 欲しい、望む答えなど誰も返さない。祈っても、救われない。
 ここに、自分たちを守る絶対の誰かはいない。自分は自分で守るしかないのだ。身も心も。
 誰しも、ひとりひとりの生を生きるならば。
「明日には、出発するぞ。用意しておけよ、サフィルス」
「……あなたは、本当に天使だったんですか」
「……俺は俺だ。それ以外になった覚えはないね」
 俯き、涙をこぼす彼の肩がびくりと震える。地面に落ちる涙の一粒一粒が、彼の純粋さをはぎ落していくようだ。抜け落ちていく魂は二度とは戻らない。地に染み込み、ぐずりと泥にまみれていく。その姿を、ただ見つめた。
「ジェイド……」
 彼のくれた眼鏡は、見えすぎる。彼の纏う空気が暗く淀み、夜の世界に溶け込んでいくのも見えた。
 死の淵に立ち、飛び降りようとした彼。けれど今、憎しみという名の杭が、サフィルスを世界に繋ぎとめていく。優しげに、儚げに伏せたまつげは見開かれ、強い意志の光を宿していく。
「……あなたという人は」
「……じゃあな。後は勝手にしろ。俺は、寝る」
 突き刺さるような視線を感じながら、さっき一瞬で駆け抜けた道を戻る。宿の扉を静かに閉じて、階段を上ってはじめて、息を吐いた。
(……痛いんだよ、ばかやろう)
 サフィルスはついてきてはいなかったが、なんの不安も感じなかった。
 確信している。すべての逃げ道を塞いでやったから、彼は戻ってくるしかないだろう。死の旅路から、生きる地獄へ。自分と同じ生き物に、今度こそ生まれ変わって。
 ドアは相変わらず軋んでうるさい。開け放ったまま、血の匂いの染み付いたベッドにもう一度身を横たえた。
 眼鏡越しに見る窓からの月は、もうさっきより随分下がったところに照っている。夜明けが近いのだ。
(……そっか、度が合ってないんだな、この眼鏡)
 今更そんなことに気付いた。触れると小さく鳴るそれを、そっと外した。眩暈が嘘のように止んで、苦笑する。らしいというか、なんと言うか。
 あの暗く濡れた目が初めて会った時からあったなら、こんなじくじくとした胸の痛みはなかっただろうか。
 倒れる彼のその手を取って、この心をさらけ出し、彼の望む言葉を一言でも言ってやったなら、ふたりの距離は縮まっただろうか。
 青く冷たい光でなく、暖かな、日の光に満ちた何かに包まれただろうか。
 ——認められただろうか。彼が彼のままでいることを。
 わかりやすい「友だち」とかいう関係になれただろうか。
 彼がことあるごとに口にし、嫌というほど耳に残る神の愛を、この地にあって見ることができたろうか。天でも見られない、感じることのできなかったその「何か」を。
(……なんてね)
 そんな風に、わかりあってはいけない。
 求めることすら、滑稽だ。そう、ずっと思っている。だから、これでいい。憎まれようが嫌われようが、彼が生きていること自体が自分には価値のあることなのだから。
 ふたりの間に優しさは必要ない。そんなものは、あえていうなら、聖書に書かれた悪魔の言葉のようなものだ。心を迷わせる、甘い囁き。それに寄りかかってしまえば、きっと自分たちは目的を果たせはしないだろう。
 辛くて苦しい時に、傍に手軽な優しさがあったなら、自分もきっと縋ってしまう。だからこの奈落で一緒にいようとするならば、優しくし合っては駄目なのだ。動かされないようにしなければ。
 強く強く、自分を持って、流されないように、ほだされないようにしなければ。
 それは天でも地でも変わらない、自分の矜持だ。変わりはしない。……現に自分は動かされなかった。危うい、ところだったけれど。
 月が白んで西の空に沈んで行くのを、ゆっくり瞼に焼き付けて、目を閉じた。
 手に入るはずのないもの、近くにあるはずのないもの。それを手に入れる奇跡が起こらなかったことを、自分は感謝すべきなのかもしれない。
 方向性は違えど、自分の前にそれらしき出来事は起こったのに、思うようには大切にできない。彼のくれた贈り物が嬉しくなかったわけではない。……ついぞ忘れた、涙を思い出すくらいには、甘くせつなく自分の胸に切りつけていくものではあったのに。
 それでも、その優しさに同じ物では応えられない。——自分は、応えられない。
 きしきしと壁伝いに音が聞こえる。誰かが登ってきているのだ。それを耳の端で捉えてから、眠りに落ちた。
 ……それでも欲しいと思う気持ちは湧いてくる。
 何度も沈み、浮かんでくるあの月を——見るたびに。
 

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