「悪役令嬢と極道P」新連載のお知らせBlog

00 – プロローグ

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プロローグ

神様 助けて下さい。

しんしんと地面に小雪が降り積もっていく。
赤いサイレンが僕らの間を何度も横切り、ざわめきは遠く聞こえてくる。
誰かが僕らを噂しているのだろう。

【住人】「あそこのうちよ、子どもを突き落としたお母さんがいるのよ」

その小さな公団住宅には、僕と母親と、僕の妹が住んでいた。
家族、と人は僕たちの事を言う。
だけど、僕は家族というものを知らない。
その言葉が持つ幸せの匂いは、たぶん僕たちは縁がなかったと思うから。
目を閉じて、思い出すのは母の放つ金切り声だけ。
そして、彼女の悲鳴だけ。

僕の妹、『八重』。
八番目の子どもだから。僕は七番目の子どもだから、七緒。
僕ら以外の兄弟はここにはいない。
父の連れ子もすでにどこかへ巣立ち、父自身も失踪。行方知れず。
僕らの前にも生まれた子どもはいたらしいけれど、僕はその存在を感じた事は
ない。
たぶん死ぬか、どこかへ行ってしまった。
そんな事だけは、何も言わなくてもわかる家族だったのだ。

だから僕らはふたりきりの兄弟だ。
長谷部という家に生まれた、血を分けた、たったひとりのお互い。

……けれど、今日は別れの日。
……もしかしたら永遠かもしれない、別れの日。
母は彼女を笑いながら、ベランダに釣り上げ、落とした。
今も聞こえてくる、人々の囁き通りに。

【七緒】「八重」
【八重】「……」

呼んでも、妹は答えない。
固く閉じられた唇は何も紡がず、暗く沈んだ瞳は僕を見ようとはしない。
ため息が白く空気に溶けて、僕らの間を揺らいだ。

【七緒】「八重……僕たち、別々の所に行くんだって。そこで新しい生活を始
めるんだ」
【七緒】「僕たちはお母さんといないほうがいいんだって。僕は、八重とだっ
たらいたいんだけど……八重は病院に行かなくちゃいけなくて」

僕は警察の人から言われた事を、オウム返しに喋り出す。
無機的な目が雪の粒を見つめている。僕じゃなく。

【七緒】「八重は病気なんだって。心が傷ついているから、治さなくちゃいけ
ないんだって」
【七緒】「でも、それは八重のせいじゃないんだよ。……けど、それが治らな
いと、八重は外に出られないんだって」
【七緒】「……だから、離れ離れになっちゃうんだ」

痛々しく包帯を巻かれた彼女の肩に、手を伸ばした。
冷たいその感触は僕を拒んだりはしない。ただ、冷たく佇むだけだ。
僕はかがんで彼女の視線に標準を合わせる。
だらりと力無く垂れ下がった手が嫌でも見えた。
今年十才になるはずの妹の手はガリガリで、見るに堪えない傷痕ばかり。
傷ひとつない、僕の指とは違いすぎる。
それは僕の罪の証しだ。

ひとつ屋根の下に暮らしていたのに、僕は最後まで彼女の悲劇を傍観している
だけだったのだから。

過保護で、僕ばかりを愛した母。
今の不幸を、彼女にばかり当たり散らした母。
けれど、それは今日で終わりを告げる。
僕はどこかのボランティアの人に身を寄せて、八重は遠くの知らない病院へ。
それはもう、大人が決めてしまった僕たちの運命なんだ。

【七緒】「八重……必ず一緒に暮らそうね。お父さんもお母さんもいなくて
も、大丈夫になったら。……迎えに行くから」

それは、淡い決心だった。
今は何も出来ない。けれど、いつかは。
大人になったら。力があれば。今はないけど、きっといつか。

【七緒】「絶対、迎えに行くから」
【八重】「……」

返事はなかった。

【七緒】「……手紙、出すから。僕の名前、覚えていて」

五体満足の体。
社会的な生活の出来る環境。
そして言葉と物言う瞳。
妹は家族であるはずの母からそれを奪われ、僕にも分け与えられるはずだった
苦しみをすべて引きうけて、こうなった。
彼女の上に、僕の未来は存在する。
だから僕は、彼女を救わなければいけない。一生を掛けてでも。

【黒衣の女性】「七緒君、もういいかしら」

背後に、女の人が立っていた。
事件の後、児童相談所から派遣されて来たのだと、警察の人が言っていた。
「もっと早く来てくれていれば」とは、やっぱり思ってしまう。

【七緒】「佐々木さん、もう少し」
【佐々木】「あっちにね、車を待たせてあるの。もう遅いし、休んだほうがい
いわ。七緒君も、ね。あなたの迎えも来ているから」

それは有無を言わせない、大人の言葉だった。
僕は子どもだから、それには逆らえない。

【七緒】「……はい」
【八重】「……」

八重は佐々木さんの所に素直に歩いていく。
白い雪に、小さな足跡がついた。
それはあまりにも小さく、儚い。

【七緒】「八重!」
【八重】「……」
【佐々木】「大丈夫よ、七緒君。八重ちゃんはきっと治るわ。治って、幸せに
なれるわ」
【七緒】「……でも、何も話してくれない」
【佐々木】「病気だからよ。きっと、君が大人になる頃には変わっているわ、
全てが」

八重は心を閉ざしている。
……警察の人も、近所の人も、週刊誌も、この人もそう言ってた。
母のした事はひとりの人間を精神的に殺す行為だったのだ、と。
それを癒やすには、果てしない時間と静かな場所が必要なのだ、とも。

【七緒】「恨まれても仕方ないと思ってるんです。だけど、せめて一言でもい
いから」

言葉を。ただ言葉を。人の言葉を。
彼女がまだ生きているっていう、証しを。
僕がいつか大人になって、強く強くこの手と足を固くするまで、君が生きてい
るという希望が欲しい。
君はまだ、生きている。
死んでいない。
まだ間に合うって、証しを。

【佐々木】「七緒君、今は無理なのよ」
【七緒】「だけど」
【佐々木】「八重ちゃんの苦しみを、少しでも癒やしてあげたいなら、今はよ
しなさい」
【七緒】「……」
【佐々木】「心の傷が深くて、今、その一言を言う事すら、八重ちゃんにとっ
ては痛い事なの。わかってあげて」

ぽん、と佐々木さんの手が僕の頭に触れた。
僕の知らない、柔らかい匂いがした。

【佐々木】「一旦、お別れよ。さあ、さようならを」

【八重】「……」
【七緒】「……八重、さよ……なら」
【八重】「……」
【七緒】「さよなら」
【八重】「……」

八重の唇は、動かなかった。

【佐々木】「……大丈夫よ、七緒君。大切にするから」
【七緒】「あ」

そうして、さくりさくりと音を立てて、足音は遠ざかっていく。

白いものがゴミのように僕に降り積もる。冷たくなんてない。
こんな程度の冷たさを、冷たいなんて言いたくない。
ジーンズのスカートの、そのくたびれた青さ。
深爪をした指、ザンバラに切られた荒れた髪、赤いサイレンに照らされた彼女
の瞳。
僕は呼び止めて、それらに何を言うつもりだったんだろう。
さよならの後に。

【七緒】「……守りに行くよ、八重」

今はそんな独り言を言うのが精一杯で。
ふたつの影が白いワゴンに押し込められて、汚く地面をかき散らし、遠く遠く
過ぎ去って行くまで。
僕はただ、立ち尽くした。

その日、僕は高校の合格通知を貰った。
十五の冬だった。

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