吾輩は猫である。
名前はまだない。
——というのは、すでに説明した通りか。
そう、名前は実はある。
が、その名前はもう呼ばれまいと決めた名前だから、呼ばれないだけ。
——頑固者だと笑いたくば、笑え。
吾輩はかつて青い髪のあの人に助けられた。
大事な人を失って、ささくれて、もう一度罪を犯したそんな猫を助けてくれた。
そんな吾輩をあのひとは優しく抱いて、ミルクと寝床をとれて、名前をつけてくれたのだ。
——疎まれ、蔑まれた、傷だらけの吾輩に。
『……僕と君は似てるから。……きっと、仲良くなれるよ』
だからあの人がいない今、吾輩はもう、『その名前』を誰にも呼ばれないと決めた。
記憶の中のあの声が薄れてしまうのが怖いから。
ご主人様は綺麗だった。
とても綺麗で、優しかった。
けれどもういない。かつて吾輩に優しくしようとしたあの少女たちも。
もういない。溶けた。世界に。
そして、吾輩は。されど、吾輩は。
いまだ溶けずに、ここに残る。
【猫】「……(……)」
【女の子猫】「にゃーーー!(師匠ーーー!)」
【男の子猫】「にゃ〜〜〜!(師匠こんにちはーー! またお話を聞きにきましたー!)」
【猫】「にゃ……。(……はあ、毎日飽きずによく来るのう)」
【女の子猫】「に。(はい、だって師匠のお話はおもしろいですから!)」
【男の子猫】「にゃん。(師匠はいろんなことを見てきたから、そんなに渋い猫なんですね〜)」
【猫】「……にゃあ。(……まあ、年だけは取ってきたな)」
【男の子猫】「にゃんにゃん。(でも、師匠。僕たち、最初の疑問に答えてもらってないんです)」
【猫】「にゃん?(ん? ああ、吾輩の人生についてか? そうかの、ずいぶん語ってきたつもりだが)」
【女の子猫】「にゃ〜。(語ってないですよ〜。私たちが聞いたのは三人の女の子と、その子たちが好きな男の子のお話……それと、ここじゃないどこかの世界のお話です)」
【男の子猫】「にゃんにゃん?(それに、師匠はどうしてそんな遠い場所と、遠い時間のことも知っているんですか?)」
【猫】「……にゃん。(……神様の本があるから、知ってるんだよ)」
【女の子猫】「にゃ?(え?)」
【男の子猫】「にゃ?(かみさま?)」
【猫】「にゃにゃにゃ……。(そうだ。昔ここには神様がいて、世界のことを見渡していた。もういないけど)」
もう溶けてなくなった。
指輪と本を残して消えた。
それだけは消えてなくならないようにと、祈りをこめて。
【女の子猫】「にゃん?(どうして、神様はいなくなっちゃったんですか?)」
【猫】「……にゃん。(……寿命がなくなったからだよ)」
【男の子猫】「……にゃん?(寿命?)」
【女の子猫】「にゃん?(かみさまなのに? そんなの大変じゃないですか。だって、アロランディアはかみさまの島だって、みんな言ってますよ!?)」
【猫】「……にゃんにゃん。(そうだよ。ここは神様の島だ。でも、大陸だって、どこだって今はそうなんだよ)」
【男の子猫】「にゃん……?(……?)」
【猫】「にゃん……にゃん……。(ただひとつのかみさまはもういない。けど、かみさまのかけらは、ちゃんと今でも息づいている。吾輩はだから生きていられるんだよ。ずっとずっと、生きていられるんだ)」
【女の子猫】「にゃあ……。(……師匠……)」
○汽笛の音。
【猫】「にゃああ。(……じゃあ、最後の話をしようか)」
【男の子猫】「にゃん?(え?)」
【女の子猫】「にゃん?(さいご?)」
【猫】「にゃあ……。(お前たちもそのつもりで、今日は来たんだろう?)」
【男の子猫】「……に。(……師匠)」
【女の子猫】「……にゃあ〜。(なんでしって……)」
【猫】「……にゃん。(……本に書いてあったからな。わかるんだよ)」
【男の子猫】「にゃん?(本?)」
【女の子猫】「に?(なんですか? それ)」
【猫】「……にゃん。(空の神様が残した本。海の神様が残した指輪。それらがすべて、教えてくれるんだ)」
【男の子猫】「……。(……)」
【女の子猫】「……。(……)」
【猫】「にゃあ……。(そう、あれはもう気が遠くなるほどの遠い昔……)」
○暗転。
——海鳴りが聞こえる。
——しずかだ。
——とてもしずかだ。
——きみのいない世界は、とても静かだ。
○一枚絵 老人、絵本をめくる。その手には指輪。手前には猫。
【猫】「……にゃあ〜……」
【ブルー】「ああ……こんな時まで本を書くのかって? ……それはそうだ……彼女が死んだ日にまで、僕は本を書いている。……それは人間らしくないのかもね……」
【猫】「……にゃあ……」
【ブルー】「……でも……これも……約束だから……姉さんとの……けほっ」
【猫】「……にゃあ……」
【ブルー】「……彼女の織り上げた物語を、僕は最後まで書いてあげたいんだよ。……幸せの記憶を、書き留めておきたいんだ。いつか、彼女がまた生まれてきた時に、楽しめるように……」
【猫】「にゃあ〜。
【ブルー】「……ちゃんと最後まで……僕たちは幸せだったって……。……指輪の約束を守ったって……ちゃんと」
【猫】「にゃあ……」
【ブルー】「……ねえ、『クロ助』」
【猫】「……」
【ブルー】「……君もずいぶん長生きしたよね。君と僕が友だちになってから、もうどれくらい経ったのかな。ずっと一緒にいてくれた……」
【猫】「……」
【ブルー】「ありがとう。……君も僕の幸せの一部だ。ごめんね……おいていく……。
【猫】「……にゃあ……」
【ブルー】「僕ももう終わるから……ごめんね」
【猫】「にゃあ〜……」
【ブルー】「……くすぐったいよ」
【猫】「……にゃあ〜」
【ブルー】「……ありがとう。クロ助。……けどさ、思わないかい? 本当に彼女は……。ネーミングセンスってものが……なかったよ……ね」
【猫】「……にゃあ」
【ブルー】「……やっぱり君も、そう思う? ……あは、大丈夫……もうマリンはここにいないから……聞かれないよ。だから……」
【猫】「……」
【ブルー】「……最後にちょっとだけ……ズルを……しようかな……」
【猫】「……にゃあ?」
【ブルー】「……きっと……金色のあの子も……それを願ってるさ……」
○画面光って、一枚絵。猫、人間になる。
【猫だったもの】「(……ブルー)」
【ブルー】「……」
【猫だったもの】「(ブルー、眼をさませ。吾輩は別に戻りたくはない。かつて、女神に弓引いて、最初の悪とされた。……それ以来、輪廻の輪に戻ることはずっとできなかった。確かに、それは辛くて悲しいことだったが……)」
【猫だったもの】「(……お前の命と引きかえなどは、やめてくれ。吾輩は猫だ。そのままでいい。……そのままでいいから、許されなくていいから、あと一分でも一秒でも生きろ。……吾輩は……『クロ助』という名前も気に入っておる)」
【ブルー】「クロ助……」
【猫だったもの】「(……ほれ、ペンを持て。しっかりとだ。……書き上げるにはまだ三文字足りない。……足りないではないか)」
【ブルー】「……」
【猫だったもの】「(ブルー!)」
【ブルー】「……よ」
【猫だったもの】「(……?)」
【ブルー】「……信じているよ……輪廻の輪に君が戻っても……。きっと……何も悪いことなんておこらない……」
【猫だったもの】「(……ブルー)」
【ブルー】「しんじているよ……。指輪は……君にあげるから。……頑張って」
○暗転。ブルーがくずおれる。
【猫だったもの】「……」
【猫だったもの】「(……吾輩は、本当に『神殺し』じゃな……。……けれど……)」
【猫だったもの】「(……吾輩は一度もおぬしらを嫌ったことはないよ。ただ……特別になりたいと、少しだけ思っておった。だから、爪を立てたのだ)」
○一枚絵 花畑の中の女神(使い回し)
【猫だったもの】「(……ブルー……ありがとう。吾輩を人の輪廻に戻してくれて)」
【猫だったもの】「(……でも、やっぱり吾輩は……『クロ助』でいるよ)」
○一枚絵 倒れる老人。その手には指輪。手前には猫(差分)。
【猫】「にゃあん……。(……おぬしの恋人がつけてくれた、この名前でいるよ)」
——海鳴りが聞こえる。
——しずかだ。
——とてもしずかだ。
——きみのいない世界は、とても静かだ。
——きみがいなくても、美しいままだ。
それが、とても。
【猫】「にゃーん……。(うれしくてかなしいよ)」
○潮騒、遠くなる。現実に戻ってくる。
【猫】「にゃあ。(……これで、吾輩の話はおしまいだ)」
【女の子猫】「……にゃあ。(……じゃあ、師匠は……)」
【男の子猫】「……にに?(元は、人間だったんですか……)」
【猫】「にゃあ。(まあ、そういうことだな。それから落とされて、植物になったり、動物になったり……。人間以外のもので、人を眺めた。そしていくつもの不幸を呼んだよ。憎かったからな)」
【猫】「にゃあ。(悪と呼ばれるなら、そうあろうとしたからな。が、もうやめたよ)」
【猫】「にゃあ。(もうよした。……今の吾輩は、ただの傍観者だよ)」
【猫】「……に。(エンドマークのない生を、続けるのが吾輩の罰だろうしな)」
【女の子猫】「にゃあ……。(……知ってます。こわいこわい、あくまのはなし)」
【男の子猫】「にゃあ……。(……知ってます。こわいこわい、七色の花の予言)」
【猫】「にゃうん。(ふむ、それなら丁度良かったな。……お別れだ)」
【女の子猫】「……。(……)」
【男の子猫】「……。(……)」
【猫】「……にゃあにゃあ。(気楽にお別れだ。もう吾輩のとこには来てはいかんぞ。何も話すことはないし、やることもある)」
【女の子猫】「……に?(やること? せかいに悪を根付かせることとか?)」
【猫】「にゃあにゃあにゃあ。(ちがうよ。物語のネタさがしをしないといかんのだ。あの本はまだ終わってないからな。エンドマークがついていない)」
【男の子猫】「……にゃ?(え?)」
【猫】「にゃあ……。(だから、吾輩が続きを勝ってに書いておる。ブルーがまた生まれ変わってきた時に、渡したいからな。おぬしが輪廻の輪に戻っている間も、世界はこんなに楽しいことがあったと……)」
【猫】「にゃあにゃあにゃあ。(伝えてやりたいからな。……せっかくペンが握れるようになったのだから)」
【男の子猫】「にゃあ……。(師匠……)」
【猫】「に。(……まあ、満月の日にしか戻れぬけどな。……それでは失礼。今日はすけじゅーるが詰まっておる)」
【女の子猫】「……にゃあ。(そうです、きょうは満月でした。……猫にはわかりますね、そういうの)」
【男の子猫】「にゃあ。(うん……わかる……)」
【猫】「……にゃあ。(ではな)」
【女の子猫】「……。(……)」
【男の子猫】「……にっ!(……まってください!)」
【猫】「……に?(……ん?)」
【女の子猫】「……にゃあ(……待って下さい! 師匠!)」
【猫】「にゃあ。(……だから、もう何も話すことはないと……)」
【女の子猫】「……にゃ。(……もうひとつだけ聞かせてください)」
【猫】「……にゃあ。(なんじゃ)」
【女の子猫】「……にゃあ。(……ひとりはさびしくないですか?)」
【猫】「……。(……)」
【女の子猫】「にゃあ、にゃあ、にゃあ。(……ごしゅじんさまも、ともだちもしんじゃって……寂しくないのですか……)」
【猫】「に。(さびしいよ)」
【女の子猫】「……!(……!)」
【男の子猫】「……!(……!)」
【猫】「にゃあ。(でも、寂しくても辛くても、変えてはいけないことはあるんだよ。……まだ、おぬしたちにはわからんかもなあ……)」
【女の子猫】「……にゃあ。(……わかんないです……)」
【男の子猫】「……にゃあ。(……僕は……ちょっとわかる……)」
【猫】「……にゃあ。(ふむ、だったらちゃんと連れて帰れ。……男だろう)」
【男の子猫】「……にゃあ。(はい)」
【女の子猫】「にゃあ。(……かわいそうです)」
【男の子猫】「……にゃあ。(……そんなこと、言ったらいけない)」
【猫】「……。(……)」
【女の子猫】「にゃあ!(でも、かわいそうですっ……! いつまで待ってればいいんですかっ)」
【猫】「……。(……)」
【女の子猫】「にゃあにゃあ!(どれくらい待てば、戻ってくるですかっ……そんなの……保証なんて……)」
○汽笛の音。
【男の子猫】「……にゃあ。(あ……)」
【猫】「にゃあ。(……そろそろおぬしらのご主人様に怒られるぞ)」
【男の子猫】「……にゃあ。(帰ろう)」
【女の子猫】「……。(……)」
【男の子猫】「……にゃあ。(……帰ろう、僕たちにできることはないよ)」
【女の子猫】「にゃあ。(〜〜〜!)」
【男の子猫】「……にゃあ。(……帰ろう)」
【猫】「にゃあ。(さらば。元気でな)」
【男の子猫】「にゃあ……。(……さようなら……)」
○子ども猫の足音。
【猫】「……にゃあ。(……はやくいくんだよ)」
【女の子猫】「……にゃあ。(……また、あえますです)」
【猫】「……にゃあ。(……だといいな)」
【女の子猫】「にゃあ!(……きっと、会えるのです……! ……だから、またねです……!)」
○子ども猫の足音。
【猫】「にゃあ。(……やれやれ。また、か……)」
【猫】「……にゃあ。(マリンみたいなことを言う……)」
【猫】「……にゃあ。(……会えるといいがな。ふ)」
——海鳴りが聞こえる。
——今も昔も、これだけは変わらない。
美しい景色。ずっと好きでいた。ずっと愛した。
けれど、時に憎んでいた。優しくないと思った。
だから、間違った。取り返しのつかないことをした。
後悔している。でも、だからといって自分の人生が不幸だったとは思わない。
今は、思わない。
本に書かれた、たくさんの物語。
——傷つき苦しみ、未来を夢見る人々が、吾輩を癒やしてくれたから。
吾輩と同じ心を持つ誰かは、こんなにいるんだ。
——自分だけじゃないんだ。
だったら、できる。
【猫】「……(吾輩もきっと幸せになれる。そうだよな、ブルー)」
そしていつか、この生が終わったときに、同じように。
いい『猫生』だったとつぶやきたい。
——いつか。……いつか、いつかでいいから……。
『またね、です』
【猫】「……にゃあ〜。(何百年先であろうかな……)」
——またね、が叶う日は。
○ふたりとも猫をだっこしている。
【青い髪の男の子】「……わあ、いたいた。本当にいたよ!」
【銀色の髪の女の子】「まあ、ほんとう……ステキにやくざ……。ぽっ」
【猫】「……にゃあ!?(わっ!?)」
【女の子猫】「にゃあ!(ししょー! さっそくまた会いましたね!)」
【猫】「……にゃあ?(おぬしら……)」
【男の子猫】「……にゃあ。(……ししょー、ごめんなさい。この子、言い出したら聞かなくて……)」
【青い髪の男の子】「わあ、かっこいいなあ! 本当に傷があるよ! ケンカ強いんだね!」
【銀色の髪の女の子】「……男が強いのはいいことだわ……。……よくやったわね、メモ」
【女の子猫】「にゃーん(はいです♪)」
【青い髪の男の子】「また、アクアはへんなごっこ遊びはじめて〜。猫と会話できるフリなんて、よしなよ」
【銀色の髪の女の子】「……フリじゃないもの、できるもの。私は猫マスターの猫マスターなのよ。ふつーのひとと一緒にしないで。ぷん」
【青い髪の男の子】「意味が全然わかなんないよ。もう。最近のアクア、なんかヘンだよ。猫とみれば触って触って……会話のフリなんてしちゃって、拾って。もううちの船に猫はこれ以上いらないよ。お父さんも怒るよ」
【銀色の髪の女の子】「……べつに、どの猫でもいいってわけじゃないんだけど。気の合う子だけだもん。それに……目的だってあるのよ」
【銀色の髪の女の子】「……一足先にわたしは、思い出したから」
【猫】「……。(……)」
【青い髪の男の子】「なにが?」
【銀色の髪の女の子】「……でも、あなたは思い出さなくてもいいわ。……それでもちっともかまわないんだもの」
【猫】「……にゃあ。(……まさか)」
【銀色の髪の女の子】「……素敵な首輪ね、猫さん」
【猫】「……(……)」
【銀色の髪の女の子】「さあ、一緒に行きましょ。……ノートはわたしの人生が終わるあたりに取りに来ればいいわ。又は風に吹かれて、なくなってしまってもかまわない」
【猫】「……にゃあ。(……帰ってきたのか)」
【銀色の髪の女の子】「……わたしのなまえは、アクアよ。よろしく、猫さん」
【青い髪の男の子】「やれやれ……やっぱり飼うんだ。世話はどーせ僕なのにな」
【銀色の髪の女の子】「ほら、ちゃんと自分の名前言って」
【青い髪の男の子】「わかってるよ。もう。こんにちは。猫さん。僕の名前はね……」
【青い髪の男の子】「ブルーっていうんだよ。ずいぶん前の祖先に、そういう立派な人がいたんだって」
○暗転とともに汽笛の音。スタッフロール。
○一枚絵 三匹の猫とふたりの子どもが絵本を書いている。
【ブルー】「わーー! アクアへたくそ!」
【アクア】「わ。わるかったわね……絵は苦手なのよ……」
【女の子猫】「にゃあ。(そんなことないですよ、結構うまいですよ)」
【男の子猫】「にゃあ……。(そうかなあ……僕もこれはどうかと……どうです師匠?)」
【猫】「にゃー。(にゃー)」
【女の子猫】「……にゃあ!(あっ、ずるい! 猫まねなんて!)」
【猫】「……にゃあ。(猫じゃって)」
【ブルー】「もー、アクアは文字担当! 絵は僕が描くから!」
【アクア】「……えー」
【ブルー】「分担しないと完成しないよ!……ほら、交代! 提出しないと先生に怒られるよ!」
【アクア】「……はーい……。ブルーはこわーい」
【ブルー】「アクアはこわくしないとやらないもん。そのかわり、好きな話にしていいからさ」
【アクア】「ほんと!? それじゃあねえ……。むかしむかし……あるところに……」
○セピアカラーになる。
【アクア】「……優しい神様が、この星におりました……」