「悪役令嬢と極道P」新連載のお知らせBlog

夏影

猫ト指輪ト蒼色絵本[目次]へ戻る

○暗転。

じいり、じいり、と蝉が鳴く。
緑色濃い竹藪の中、それに合わせ、私はひとりうめいた。
じいりじいり。じいりじいり。
叫ぶそれらにかき消えて、小さく頼りない私の声は、夏影の下、埋もれゆく。
喧噪も度を超せば静寂となる。
じいりじいり。じいりじいり。
——その音はすでに世界の一部だ。
私もなるのか。その一部に。
(ふむ、ならばここで死ぬのも一興か)
空にあるのは光。
細かな葉の合間に見える入道雲は、末期に見る景色として最良であろう。
血塗れた唇の味に酔いながら、私はすでに痛みのない右手に神経のすべてを集中させた。そこには今も変わらない、小さな星の印がある。
かつて私は異界に渡り、たくさんの異形のモノと出会った。
——いや、そこではむしろ私こそが異形、あり得ないモノであった。
短い月日のつもりでいたが、元の場所に戻ってみると、私にとっての『世界』はどこにもなかった。
この世界でも私は『異なるモノ』となったのだ。
それを後悔したことは一度もない。
最後の巫女として、その肩書きは素晴らしく似合う、強き印だったから。
この手の星よりも。
あれから七十年。
——駆けた。
ひたすらに。
野花を散らし、雪と共に溶け、夏影を追いかけた。
日々は美しくただ流れ、人もまた流れる。限りある命ゆえ。
戻ったときの時間のずれも、もはや昔語りだ。
最後にして最強の日野平の巫女姫。
ああ、もはや姫とは言えぬ年ではあるが。
——ようやく負けられた。
危ない局面は何度もあったが、数十年の長き時を勝利のみで生きられたのはまさしく奇跡、神の御業だ。
戦う日々。いつでも。春が来れば夏が過ぎ、秋を経れば冬を待つ。
寄せては返す波音のように。
終わりないように思う、無限運動。
いつ死んでもおかしくない人生であったのに。私はここまで生きてしまった。
それがようやく、終わった。
静寂が私にも降りてくる。
他の『人』と同じように。
(……ああ、良い人生であった)
その一言を胸に終わることを、目標としていた。
のう、最後まで私は誇り高く走れたよ。
おぬしたちはどうじゃろう?
——目を閉じる。

○暗転。

——その向こうには、あの水平線。
どこまでも続く、あの青い海の……。

【老人(オフ)】「……ご苦労だったな」
【葵】「……?」
【老人】「……ようやく、これで私も消えられる。お互い、疲れたの」
【葵】「……おぬし。あの時の」
【老人】「ふむ、良かった。覚えていたか」

忘れるはずはない。
あの神の島に私を呼び、運命をねじ曲げようとした人ならざるもの。
帰還の日以来、一言すらも声は聞こえず、関わりもなく、私はこの者は『消えた』のだと思っていた。
……いくじなしめ、と少し残念に思いながら。
現在を先のない世界だと絶望するのは簡単だ。
だが、私は自分が生まれたこの世界、時間、瞬間を愛すると決めた。
切り捨てて忘れてしまうなど、できなかった。
だから、戻ってきた。艱難辛苦(かんなんしんく)が待つとわかっていても。

【葵】「今さら何の用だ。私はこれから行かなくてはならないところがある」
【老人】「まあ、そう焦らなくてもよかろう。酒もある。つまみもある。おぬしの好きなばななもあるぞ」
【葵】「む……」
【老人】「久方ぶりに食べたかろう?」

ばなな。なつかしい。
あの甘みは日本にはないものだった。
今の私にとっては桃源郷の果実に等しい。

【葵】「……ふん」
【老人】「よし、座ったな」

○一枚絵 暗闇の中 葵と老人が茶を飲む(葵は年を取っているので後ろ姿)。

【葵】「……変わらぬな、おぬし」
【老人】「年を取ればたいていそうなる。おぬしもそうであったろう。ある一定を過ぎれば年など何の意味もなくなる」
【葵】「まあ、確かにな。昔は若さが恐怖と見られた。が、ここ数十年はただの婆として生きられた。楽になっていた」
【老人】「若いままでいたかったのではないのか。望めばできたぞ」
【葵】「意味のないことだ。……それに、私は人だ」
【老人】「……そうだな」
【葵】「……それで? 私にどんな話があるのだ」
【老人】「……話か、特にはないな」
【葵】「な」
【老人】「馬鹿にしているわけではない。
【葵】「しておるだろう」
【老人】「別れの酒を最後に酌み交わしたいと思うのは、悪いことか?」
【葵】「……」
【老人】「……最後の敵はずいぶん手強かったようだな」
【葵】「……そうでもない。かつての私なら、楽に勝てたであろうよ。老いというものは、そういうものだ」
【葵】「まあ、いつまでも最強でいたら終わりが見えぬ。これくらいが丁度良い。うまく体を獣が食べてくれるとよいが」
【老人】「なんだ。……家に戻してやろうかと思ったのだが」
【葵】「いつもふらりと出て行く私だからな。またいつものように長い旅に出たのだと思ってくれればよい」
【葵】「いや、その方が嬉しい。神隠しにまた会ったのだと思ってくれれば、なおな」
【老人】「……そういうものか?」
【葵】「いたずらに派手な葬式など出される方がイヤなのでな」
【老人】「なるほど」
【葵】「……のう、今度は私が聞いてもよいか」
【老人】「なんだ?」
【葵】「お前の名は何という」
【老人】「……」
【葵】「あの島で私は確かに神に出会ったよ。おぬしはあの神は自分だと言った。そして、間違いを止めてくれと」
【老人】「……ああ、言った」
【葵】「時間をわたる力を持ち、異なる並行の世界を繋ぐ程の力を持ったおぬしがなぜ。……私のようなものに未来を預けようと思ったのだ?」
【老人】「……」
【葵】「なぜ、私だった?」
【老人】「……さて、なぜだったかな」
【葵】「マリン殿にも、アクア殿にも私は似ておらぬのに」
【老人】「似ている者など、私にとってはひとつもなかったよ」
【葵】「……」
【老人】「マリンはマリンで、アクアはアクアだった。私にとって運命の人たち。代わりはいない」
【葵】「……ブルー殿」
【老人】「……ああ、久しぶりに呼ばれたな。……その名前。……なぜ、お前だったか。そうだな。それは……」
【老人】「それは……きっとお前が私の運命の人だったからだと思う」
【葵】「……」
【老人】「……リンやアクアと同じに、運命の人だった。そういうことではないのかな」
【葵】「……なんじゃ、わからないという答えと同義ではないか」
【老人】「そうとも言えるな。だが、仕方ない。神といえども、わからないことはある。たとえば、己の未来とか……」

……ゆらゆらと杯の水面が揺れた。いや、存在自体がぶれている。

【葵】「ブルー?」
【老人】「……ああ、すまん。私も時間のようだ」
【葵】「……」
【老人】「私もずいぶん老いたからな。それに、おぬしたちが馬鹿のようにあちこちにケンカを売るものだから……。風を起こしたり雨を呼んだり、ずいぶん力を使った」
【老人】「まったく……人同士の争いなど意味がないのにのう。……私が溶けてなくなった後が心配だ」
【葵】「おぬしも消えるのか、ブルー」
【老人】「……ああ、だからおぬしに会いに来たのだ。……私という『ブルー』はマリンの呼び声に答えなかった。アクアの声にもだ」
【老人】「それから何度もの世界の滅びと再生を見た。……その間、私はずっと考えていたのだよ。……後悔していたのだ。それを言わなかったことを……」
【老人】「……『僕は君に会えて嬉しかった』」
【葵】「……ブルー殿」
【老人】「……アロランディアには私ももう行けぬ。あの魔法が最後の力だったのだ。そして今現れる事ができたのも、七十年眠って力を溜めてのこと」
【老人】「今度こそ、間に合ってよかった」
【葵】「そうか」
【老人】「……ああ」
【葵】「では、共に行くとしようか」
【老人】「……ああ、そうだな」

○フェードして星空。

【葵】「……嬉しいものだな」
【老人】「なにがだ?」
【葵】「ひとりでないということは、本当に嬉しいものだな」
【老人】「……そうだな」

そして私は躊躇いがちにブルーのしなびた手を取った。
……まるで少女の頃のように。

○光の後、暗転。数秒待って、日本家屋の中。

【?】「……さま」
【葵】「……」
【?】「葵さま。……そろそろお目覚めになってくださいまし。珍しい食べ物が冷えていますのよ」
【葵】「……なっ!?」
【?】「きゃあっ! い、いかがなさいました!? な、何か私の後ろに物の怪など……!?」
【葵】「……な……どういうことだ! ここは……私の家ではないか……!」

見慣れた床の間、庭、廊下。
びっくりした目で見つめ続ける女は私の側仕えだ。
母、そしてその娘、そして孫。三代続けて日野平に仕えていてくれる。
……信用にたる人物、その彼女が何事もなかったように私を起こした。
いつものように。
体をまさぐっても傷はひとつもなく、怪我の痕もない。
まるで戦いなどなかったかのよう。

【侍女】「……ええ、葵様の庵でございますよ。何を今さらおっしゃるんですか? ふふ、葵様のような方でも怖い夢など見られるのでしょうか」
【葵】「……ゆめ?」

そう言われれば確かに夢のような時間ではあった。
会えるはずのないモノ。
話される筈のない話。
——食べられるはずのない。

【侍女】「でも起きてくださってよかったですわ。葵様を奉る者だとおっしゃって、旅の方が贈り物をくださいましたの。生ものでしたから、はやく葵さまが起きて食べるのをお許しくださらないかと、みんな待っていましたの」
【葵】「……生もの? なんじゃそれは」
【侍女】「はい、真っ黄色で甘い香りが致しますのよ。葵様にお見せすれば、安全かどうかもわかる、と。これなんですけど」

○一枚絵 バナナ。

【葵】「……ばなな」

それは紛れもなくバナナだった。
思い出の通りの。

【侍女】「まあ、そういう名前なんですの。なんだかたくさん頂いてしまって、しばらくは西瓜を冷やす場所もなさそうですわ」
【葵】「……ああ、それは確かに食べられるぞ。……とても……とてもうまい。……美味いものだ……」

黄色い房に手を伸ばす。
食べ方はちゃんと覚えていた。
きれいに六枚に剥く。……口にはんだ。

【侍女】「おいしいですか?」
【葵】「ああ、うまい。……好物なのだよ。これは私の……」

——大好きな。

【侍女】「ふふ、それはよろしゅうございました。それでは、下の者にも配りましてもよろしいですか?」
【葵】「ああ、生物だからな。みんなで食おう。……夏の日ざしの下で食べた方が、きっと旨いものだからな」
【侍女】「かしこまりました」

○青空。

じいり、じいり、と蝉が鳴く。
緑色濃い竹藪の中、それに合わせ、子どもたちの合唱が聞こえる。
じいりじいり。じいりじいり。
雲の影が庭のすべてを覆い隠し、一時日差しの強さを緩めてくれる。
暑い夏は老体にはこたえる。
けれど、この夏景色を私は目に焼き付けておかなければならない。
(……この美しい風景を)
あの竹藪の中でひとり消える。私は本当にそれでもよかったのだけれど。
……本当に、それでもよかったのだけれど。

【子ども】「あおいさまーー、カエルー!」
【子ども】「あおいさまー? ねー、葵様動かないよー?」
【侍女】「……葵様……?」

じいり、じいり、と蝉が鳴く。
青い空と青い海。遠い潮騒、白い影。
(良い人生であった)
そして私は世界に溶ける。新しい、再会を目指して。

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